2017/07/03

活動578日目の紅

 夕食にカレーを食べる。現地で作るカレーはカレー粉の質が悪く、日本で手に入るものに比べると格段に味が劣るため、色々と工夫してあげないと美味しくなってくれない。少し前に日本からやってきた日本人がお土産として持ってきてくれたカレールーを使って作ったキーマカレーは、本当に涙が出そうになるほど美味しかった。それと同じ完成度を目指して現地で手に入るカレー粉で作ったカレーはなんだかパサパサするしコクも旨味も何もかもが足りないしで、折角手間隙を掛けて作ったにも拘らず全力で「コレジャナイ」感を主張していた。今日食べたものを除いて、まだ四食分は残っている。人に食べさせられるクオリティでもない。頑張って食べよう。

 ここ最近は暇な時間があれば何かを読んだり何かを書いたりという行為に没頭しており、水も食べ物も少ないこの地においては時間のみが逆に湯水のように使うことができるのだが、何かしらの目的意識を持って何かを読んだり書いたりしているとそれでもなんやかんや時間というものは足りなくなっていってしまうもので、フルに一日を使うことができる日曜日であるこの日も色々と書こうと思って机の前にノートを広げてウンウン唸っていたのだが一向に筆は進んではくれず、気がつけば夕方になってしまっているという有様なのである。

 このまま白紙を前にボーっとしていても埒が明かないと、どうせなら海でも見ながら色々と考えようと思い立ち、上履きから外履きのサンダルに履き替え、道路を挟んで向かい側にあるラグーンサイドの浜辺に立つ。玄関開けたら徒歩二十秒のこのビーチは干潮時には向こう百メートル以上は海底が露出する。しかしそうではない現時刻においては、フライパンに敷くサラダ油のように海底を海水が薄く覆う。音はない。正面に海を眺めて後方に走るコンクリート舗装道路を車が走る音のみが時折響く。根本的に、その地を構成するベースとなる音がない。

 日本であれば、どこにいても割りと音に溢れている。都会であれば都会の、田舎であれば田舎の、それぞれ何かしらの音があり、だからこそ寂しくはない。生物多様性が著しく損なわれているこの地においてふとした瞬間に訪れる完全なる静寂は目の前に広がるカーニバルのような鮮やかさとはあまりにも対照的で、だからこそ、この静寂はとても貴重なものだと感じている。今の所、この地に居る誰一人として私のこの主張に同意してくれる人は居ない。

 静寂を打ち破るように、子供の声が浜辺に響き渡る。一人の小さな子供とそのお兄ちゃんと思われる子供が、もはやゴムの部分だけとなった車のタイヤを海に浮かべ、いや、タイヤの厚みほどの水深もない浅瀬にタイヤを置き、その上に乗ってジャブジャブと揺らして遊んでいる。

「アッアッアッアッアー!!!」
 大きいほうの子供がそう叫ぶと、
「アッアッアッアッアー!!」
 と小さいほうの子供が真似して返す。そんな微笑ましいやり取りを何回も繰り返す様子を、後ろで仲の良さそうな夫婦が眺めている。私は静寂が好きだ。でもこういうのも嫌いではない。他に余計な音がない分鮮明に響きわたる甲高い子供の声はどこかに反響し、ほんの少しだがエコー掛かって聞こえる。

 二人の少年達が立てる小さな波紋は歪に融合しながら広がり、徐々に綺麗な半円形へと変化しながら限りなく静かな海へと霧散して消えていった。そんな海に写る鮮烈な夕暮れの紅は悠久の時を持ちうることは適わず、次第に東の空から押し寄せるポエベの闇にやはり飲まれて消えていった。そのようにして、私の日曜日も無へと消えていった。





 なんと、私は贅沢なのだろうと思った。

 少し前の自分は、何か物がないからと、贅沢などとんでもないなどと切って捨ててしまっていた。しかし、今私の前に広がる光景はどうだろう。世界中の誰にでも自慢できる自信がある。遠い地に居る人にはこの光景を見ることは叶わない。この静寂を聞くことも叶わない。見難いものを見、聞き難いものを聞き、その結果、得難いものを得る。これを贅沢と言わずに何を贅沢と言うのだろうか。

 しかし、それは世界中のどこに居たって同じではなかろうか。世界のどこに居たって、その地に居る人にしか見ることも聞くことも触ることもできないものが何か一つは必ず存在する。その存在に秘められた価値を誰か一人でも見出すことができるか否か、重要なのは、きっとそこなのだ。

 青年海外協力隊員としての人気も残り半年余りの自分がそれに気付いたのは、残念ながらあまりに遅かったかもしれない。しかし、遅すぎたということはない筈だ。

 きっと、まだ自分にできることはある。

2016/08/18

戦後70余年の炎の揺らめき

2016年7月24日、青年海外協力隊のキリバス国派遣隊員のうち、有志の7名がベシオ島の東端に集まっていた。
集合場所を今一つ理解していなかった私は、同居人の青野氏と共にバスに揺られていたのだが、気が付くと集合場所を通り越してしまっていたようだ。
早めに家を出ていたという事もあって時間に余裕のあった私たちは、そのままベシオ島をバスで一周したのち、集合場所へ時間通りに到着した。
遅れて、その日の参加者たちが続々と集合場所へと集まってくる。
その面々は、ことごとく日本人だ。

「アベさん、彼らは、どうやって見つかるものなんですか?」
「ああ、こういうのはキリバス人がゴミ穴掘ろうとしたときに見っかったりすることが多いね。ほら、今あそこらへんって一帯に民家が建ってるでしょ」

ああ、なるほど、やっぱりベシオの地下から見つかるものなのか。
そう思いながら、綺麗に並べられていく骨を見下ろす。
ちなみに、アベさんというのはかれこれキリバスへ住み続けて20年以上の、キリバスの達人だ。
キリバスへ来る際は、この人を通しておけばまず間違いはない。
なお日本人。

70年の時を経て、完全に茶色く変色してしまった骨は、一見するとそれが本当に日本人の、いや、人間の骨だったのかどうかすら疑わしい。
しかし、中には頭蓋骨の頭頂部がそのまま残っているものもあり、それが確実に人体の一部を構成していたという痕跡が見て取れるものも、確かに存在した。
そこに集められた人骨は、全部で19柱。
例外なく、タラワ島の戦いによって没した旧日本帝国海軍陸戦隊の方々だ。
ベシオ島の地中から発掘され、すでに専門家による鑑定が完了している。

柱ごとに、発掘された骨の数にはかなりバラつきがあった。
かたや、片手で掬えるくらいしか残っていないものもあれば、これ以上選別ができないという理由で、3柱分まとめてランドセルがいっぱいになるくらいの分量になったものすらある。
鑑定をしたのは、わざわざこのためにやってきた法医学の権威という、大学の教授だ。
キリバスに居る青年海外協力隊員のうち、医療関係隊員の協力を得ながら、前日の7月23日には作業を全て終わらせていた。
その日に供養されたのは、この骨は確実にタラワ島の戦いで没した東洋人である、というのが確実である19柱だ。

見つかった骨は、基本的にはベシオの地下から掘り起こされたもので、柱によっては遺留品と共に発掘されることもあったそうだ。
出てきた遺留品は銃弾、軍刀の鞘、ヘルメットの一部、赤チンの容器、水筒など多岐にわたる。
ほぼ全ての遺留品は70余年という年月をまじまじと実感させてくれるほどボロボロで、例外なく錆にまみれていた。
そういった遺留品のすぐそばから見つかった骨で、日本人としての痕跡などが骨に見られれば、それが旧日本海軍の軍人であったとして特定されるのだという。
少しだけ教授直々に解説してもらったが、正直全く分からない。

ちなみに、銃弾といった危険物はキリバス警察へ引き渡されていきました。
爆発なんてしないだろうけど。

骨の中には、金の詰め物が施してある歯なんていうのも見つかったりしたらしい。
その時代で歯に金を入れるとなると、まあ相当なお金持ちである。
ひょっとしたら士官の一人だったのでは、などと思ったりもしたが、70年経った今となってはそれが誰だったのかを知る術は、何一つとして無い。
彼らはもはや、自分が誰だったかを知ってもらうこともないまま、弔われることになるのだ。

集められた19柱は、このキリバスでできうる限りの最大限をもって、丁重に火葬された。
燃やすための薪の一本ですら、ここで調達するのは容易い事ではない。
そもそも、火葬をするなどという宗教的背景すら、キリスト教が大多数を占めるキリバスには存在しない。

燃え上がる炎を前に、参加者全員で黙祷を捧げる。
もうすでに骨なので火葬は必要ないと思われるかもしれないが、そこは宗教上の理由と、特に疫学上の理由から、必ず火にくべる必要があるのだそうだ。
なにせ彼らはこの後、飛行機に乗って、日本へ帰るのだから。

頑張ってくれて、ありがとう。
先に、日本へお帰り下さい。
1年半後、私も日本へ帰ったら、皆様の元へ必ずお参りさせて頂きます。

彼らの存在は、かつてこの地において激戦が繰り広げられたという、これ以上ない明確な証拠だ。
そして、目の前で燃え盛る19柱分の骨以外にも、まだまだ大人数の骨がベシオ島の地下には眠っている。
その上には、今やベシオ港で栄えたキリバスの住人たちが住居を構え、日々暮らしている。
彼らを押しのけて発掘作業をする、などというのはもはや不可能に近い。
彼らが偶然発見してくれるか、もしくはアメリカ側の発掘団がついでに発見してくれるのを、待つしかないのだ。

ちなみに、アメリカ側も戦没者の発掘にはかなり力を入れている。
特に、どこに誰をどういった経緯で葬ったか、といった情報はかなり詳細に残っているそうで、その情報を元に基金が設けられ、発掘団が結成されるのだとか。
キリバスのみならず、世界各国にアメリカの遺骨発掘団は派遣されているそうだ。

今回キリバスにて開かれた慰霊会は、史上3度目だという。
1回目はそれこそ10年以上前で、ご遺族の方々も大勢このキリバスへいらっしゃったそうだ。
2回目は今回の2,3年前で、3回目となる今回は、たまたま私の任期中に開かれることになった。
毎年必ず開かれるというわけでなはいレアイベントに遭遇し、参加できたのはまさに幸運としか言いようがない。
死者を憩うという場でもあるので幸運というのは些か不謹慎かもしれないが、それでも私はこの巡りあわせに感謝した。

その日は、乾季にしては珍しく久しぶりに早朝に大雨が降ったにもかかわらず、会が開かれる頃には赤道直下特有の強烈な日差しが照り付けていた。
感じる肌のヒリヒリは、燃える炎の赤外線によるものだったのか、それとも降り注ぐ日差しによるものだったのか。
ただ、これだけ綺麗に晴れていれば、天に昇るには絶好の日和だったであろう。
一説によると、戦争で死んでその地に残されてろくに供養すらされなかった人は、祖国にも帰れず成仏もできずに、その地を永遠に彷徨うのだという。

戦没者全員が無事、この地への呪縛から解き放たれんことを、切に願う。

そしてこれ以上、彼らのような歴史の犠牲者が出ないことを、切に願う。

茶色く変色していた骨は、素手では触れないほどの高温により、真っ白になっていた。


以下、ベシオ島に今も残る戦跡関連の写真を載せておきます。




今回、慰霊会が行われた場所にある固定砲台。
後ろにももう一台、同じものがある。
最東端であるという事と、得られた情報を鑑みると、これらは使用されなかった可能性が高い。


 ベシオ島最西端にある固定砲台。
今は現地の子供たちの遊び場になっている。


 地下防空壕の入り口、だったと思われるもの。
今は周りに現地人が住み着いている。




防空壕跡と思われるもの。


司令塔跡地。鉄筋コンクリートで固めてあるため非常に堅牢。
現在は利用されていない。

2016/08/15

激戦タラワ環礁その5

この戦いが始まる前、守備隊の司令官、柴崎少将から貰った言葉を、日本兵たちは思い出していた。
「いいか、お前たち、バンザイ突撃なんてするなよ。お国のために死ぬことなんてない。生きて、日本へ帰るんだ」

生き残った日本兵は、全員が知っていた。
少将が死んだのは、彼が居た堅牢な司令部を戦傷者の治療のために明け渡したためであったことを。
日本海軍少将柴崎恵次は、その温厚な人柄でもって、部下たちから篤く慕われていたという。

「申し訳ありません少将。あの言葉、お受けすることができません」
日本兵は銃剣を手に、覚悟を決めた。

タラワ島の戦いが開始してから2日が経過して、依然としてアメリカ軍へ猛然と抵抗を続けるものの、一方で日本軍側は確実に損耗していた。
初めは4,700名ほど居た日本兵も、2日目終了の時点で生き残りは1,000名を切り、さらに東西へ分断されている。
3日目からはさらに大量のアメリカ軍の増援が来ることが予想されており、これから後に続くのは、抵抗すればただの殺戮だ。
もし降伏すれば、捕虜として命だけは確実に助かる。

しかし、日本兵の脳裏によぎったのは、戦争に負けた国の末路であった。
戦争に負ければ、敗戦国は例外なく戦勝国の占領下におかれ、植民地への道を免れない。
国に残してきた妻や子供、家族たちが全てを奪われていく。
もし生きながらえたとしても、そんな未来は決して受け入れられるものではない。

俺たちは、国のために死ぬんじゃない。
守るべき、家族のために死ぬんだ。

降伏、という二文字は、彼らの頭の中には存在しなかった。

11月23日朝、アメリカ軍は最後の一個大隊を援軍として、Green Beachから投入する。
予定されていた上陸兵の全てを投入したアメリカ軍は、しかし未だに日本軍からの抵抗を受けていた。
Red Beach 1などに残っていた日本兵も徐々に押され、海岸から後退しながら抵抗を続けたが、下がったとしてももはや東西南北をアメリカ兵に囲まれ、逃げ場はどこにもない。
死ぬか捕まるかの2択を迫られることになった彼らの中には、自害する者も居たという。

逆に、西側から分断され東側へ退くことになった日本兵は、東へ移動しながら目を疑った。
ベシオ島の東、バイリキ島を占拠するアメリカ軍の姿が見えたからだ。
もはや、東にも逃げ場はない。
飛行場の東端付近に集結した東側日本軍は、最期の時を迎えようとしていた。

時間が経つにつれ、死傷者は比例するように増えていく。
これ以上引き延ばしても、きっともう日本海軍の増援艦隊は間に合わない。
23日の夜までに生き残った東側約110名は、とうとうバンザイ突撃に踏み切る。
突撃は3回に分けて行われ、1回目2,30名、2回目2,30名、3回目50名という内訳にて実施。
弾薬や手榴弾など、もう残ってはいない。
空の銃剣を手に、アメリカ軍へ向けて走る。
放たれるアメリカ軍からの機銃掃射。
なすすべもなく倒れる日本兵たち。
同じ頃、西側で生き残った日本兵50名も、東側と同じようにバンザイ突撃を敢行した。
銃弾を持たぬ突撃に意味などなく、ほとんどアメリカ軍へダメージを与えることができず、最期の特攻は終了する。

こうして、たった3日間で日米合わせて5,700名を超える死者を出したタラワ島の戦いは、幕を閉じたのである。

たった3日で終わってしまった戦闘ではあるが、しかしそれでも、両国が被った損害は甚大なものであった。
日本側は4,700名のうち、生き残って捕虜となった日本人はわずか17名で、全員が意識不明の状態で搬送された。
それ以外の140名ほどは朝鮮人労働者であった。

アメリカ軍は、戦死した日本人兵に敬意を表し、彼らを丁重に葬ることにする。
ベシオ島の滑走路の端っこに穴を掘り、日本兵を埋葬していく。
アメリカ人なりのやり方ではあるが、日本兵たちはこの地にて弔われることになった。

アメリカ側においても戦死者は1,000人を上回り、太平洋戦争始まってから白兵戦においては最も悲惨な被害を出した地の一つとして、1945年に一つのドキュメンタリー映画が作成された。
その映画の名前は「With the marines at Tarawa」。
凄惨を極める内容のその映画は、その年のアカデミー賞の短編ドキュメンタリー賞を受賞する。
そのあまりの内容の壮絶さに、志願兵の数が一時的に減少したとさえ言われている。

「タラワ」という名前は、アメリカに強烈に記憶されることになった。

そしてこのタラワでの大苦戦は、アメリカ海軍において水陸両用作戦の改良をするきっかけとなったという。

2016/08/12

激戦タラワ環礁その4

アメリカ軍艦隊指揮官レイモンド・スプルーアンス中将は焦っていた。

タラワ島攻略にかけられる時間は、長く見積もって3日。
それ以上引き延ばせば、確実に日本海軍の増援艦隊がやってくる。

現に、戦闘初日である11月21日にミクロネシアのポンペイ島にいた陸軍甲支隊が、タラワ島襲撃の知らせを受けて邀撃部隊を編成し、出撃している。

その編成は

・輸送艦隊
軽巡3隻(那珂、五十鈴、長良)
駆逐艦2隻(雷、響)
輸送船2隻

・護衛艦隊
重巡4隻(鳥海、鈴谷、熊野、筑摩)
軽巡1隻(能代)
駆逐艦5隻(早波、藤波、初月、野分、舞風)


という、そうそうたるメンツだ。
これらともし会敵し戦闘をするとなれば、アメリカ軍側としても確実にただでは済まない。
可能な限り速やかに適地を奪取し、ベシオ島の自軍拠点化を進める必要があった。
初日の無茶な行軍は、その焦りが原因の一端であることは疑いようもないだろう。
結果として疲弊、摩耗し尽くしてしまったアメリカ軍海兵隊たちは、占領した拠点の砂浜に物資もなおざりに放置した状態で、皆砂浜に眠りこけてしまっていた。

そんなアメリカ軍とは対照的に、日本軍の兵士たちはあくまで狡猾だった。
狡猾であり、悪魔的であり、大胆不敵であった。

1943年11月22日、タラワ島の戦いが開始して二日目、日付が変わるか変わらないかくらいの、未だ宵闇が海を覆いつくしている時間、日本兵は密かに、しかし大胆に行動を開始する。
敵の情報が少なかったためか、電話回線が切られ司令塔も失っていたためかはわからないが、そこで実行されようとしていたのは、アメリカ軍への夜襲ではない。
その実、もっと効果的で、アメリカ軍にとっては悪夢のような作戦である。


日本兵は、まずRed Beachの海岸付近に打ち捨てられていた水陸両用トラクターに目を付けた。
打ち捨てられたトラクターは1日目の揚陸作戦において、アメリカ軍側の海兵隊が使用したものである。
車体のいたるところに日本兵が放った機銃の銃痕や、大砲による損傷が見受けられる。
しかしその中でもまだまともに動きそうなものに目を付け、あろうことかアメリカ軍の目を盗み、そのトラクターを奪取したのである。
もはや陸は走れないとしても、まだ海上は進める。
日本兵の目論見は、見事に当たった。

日本兵が向かった先は、浜辺から600mほど離れたところで座礁していた、輸送船「斉田丸」。
日本軍がタラワ島へ来る際、様々な物資を運び続けてきた船である。
トラクターに荷物を載せて斉田丸へ到着した日本兵は、あくまで静かに、作戦を続けた。
もし動きがバレれば、敵はすぐそこにいる。
古くは、現在のベシオ港には日本軍が使用していた波止場が存在していた。
その波止場を使用して、輸送船からの物資を陸へ運び入れていたと思われる。

結果として、アメリカ軍側には全く察知されることなく、斉田丸への配置が済んだ日本兵たちは、はやる気持ちを抑え、日の出を今か今かと待ち続けた。

午前6時、日が上ってすぐ、アメリカ軍が行動を開始する。
既に上陸を済ませている海兵隊への増援のため、揚陸部隊が前日と同じようにRed Beach側から進軍を開始した。
沖から海岸まで数百mはあろうかという浅瀬を、やはり前日のようにゆっくりと行進していく。

陸からは、前日と同じように攻撃が加えられるが、1日目ほどの激しさはない。
これは、いける!アメリカ軍海兵隊は勢いづいた。

言ったそばからまた油断。
馬鹿は死ななきゃ治らない。

斉田丸から、無数の機銃の砲身が突如として姿を現した。

行進を続けるアメリカ軍兵に、斜め後ろから雨のような機銃掃射が降りそそぐ。

予想を遥かに上回る日本兵の行動に、アメリカ軍は驚愕した。
当然、機銃掃射自体は恐ろしい。
それ自体が、すでにアメリカ軍に与える損害はとてつもないものになっている。

しかし、より恐ろしいのは、その覚悟だ。

斉田丸という、座礁して既に活動を停止した、海のど真ん中の標的とも言える建造物から攻撃をすれば、逆に敵の攻撃の的になってしまうことは必然の理。
その、攻撃の的になってしまうという恐怖を乗り越え、彼らは今、あそこから機銃掃射を続けている。

死を覚悟した特攻。

古今東西、どの戦においても、どんな敵が一番恐ろしいかと聞かれた場合、こう答える人が多いと思う。
「死を恐れない敵」

日本兵のほぼ全てが鬼人、修羅であるかのように、アメリカ軍の目には映ったはずである。
やらねば、やられる。
もはやアメリカ軍側に、手心を加えるなどという生易しい余裕は消え失せてしまっていた。

斉田丸から浴びせられる銃弾は後を絶たない。
結局アメリカ軍は増援部隊の上陸をいったん諦め、斉田丸をどうにかして沈黙させることにした。
しかし、艦隊のどの艦も、19日から行っている砲艦射撃により、残弾がほとんど残っていない状況である。

仕方なく、アメリカ軍は艦載機による攻撃を仕掛けるため、空母からF6F戦闘機を4機出撃させ、斉田丸へ機銃掃射を試みた。
当たり所が悪かったためか、残念ながら日本兵のほとんどがその機銃掃射を逃れ、船の上で変わらず機銃を打ち続ける。

次にやってきたF6F戦闘機は3機で、3機とも小型の爆弾を抱えていた。
次々に斉田丸へ投下される爆弾。
しかし、3発の爆弾のうち、2発が至近弾に終わり、直撃弾となった1発も、残念ながら機銃設置場所から離れた箇所への着弾となり、決定的なダメージとはならなかった。

最終的に12機のF6F戦闘機が爆弾を抱えて空母から出撃する。

次々に投下される爆弾。

しかし、斉田丸へは、有効な打撃を与えることができずに終わってしまう。
その間も、変わらず続けられる、斉田丸からの機銃攻撃。

しぶとい、あまりにもしぶとすぎる。

もういいだろう、なんでそこまで頑張るんだ?!

何が、そこまでお前らを戦いに駆り立てるというのだ?!

ここに来てようやく、アメリカ軍は艦載機による攻撃で斉田丸を沈黙させることを諦める。
そして代わりとして、海兵隊屈指の工作員にその命運が託された。

作戦はこうだ。

斉田丸に乗った日本兵に気付かれることなく、斉田丸へ接近する。
当時最新型の高性能爆薬を仕掛ける。
斉田丸を離れる。
爆破する。

あまりにも単純だが、もはや他に手が残されていないアメリカ軍は、すぐにその作戦を実行へと移した。
今この瞬間にも、浅瀬では海兵隊が機銃攻撃を受け続けている。
先に上陸した部隊も、日本軍との交戦で摩耗してきているだろう。
残された時間もそんなに多くはない。

海兵隊工作員は、高性能爆薬を手に輸送船を出発した。
見つかれば、自身の体に風穴が空く。
機銃掃射が続けられている方角とは逆方向から、斉田丸へとゆっくり近づく工作員。
潜ってさえいれば、気付かれることはまずないはずだ。
だがしかし、絶対に見つかってはならないという危機感が、より一層の緊迫感をもたらしていた。

敵に決定的なダメージを与えるためには、敵がより多くいる箇所で爆発させなければ効果がない。
なんとか斉田丸へたどり着くことができた工作員は、しかしまだ安心はできないでいた。
これから自分は船をぐるりと半周し、敵が近くにいる箇所にまで接近して爆弾を取り付け、その後また船を半周して戻り、その爆弾を点火しなければならないのだ。

これ以上ない緊張感の元、船の陰に隠れて少しずつ移動を開始する。
頭の上では、今でも機銃を打ち続ける音が聞こえてくる。
今すぐにでもそれを止めに行きたくなる気持ちを抑え、船の外壁に爆薬を取り付けた工作員は、速やかに、しかし誰にも感づかれることなく、もと来た道を引き返していった。
その帰り道には、爆薬へ続く導火線が続いている。

その頃、斉田丸の甲板で機銃を打ち鳴らし続けていた日本兵は喜びに打ち震えていた。
作戦が見事に決まり、鬼畜米兵どもが慌てふためく様が楽しくてしょうがなかったのだ。
一発撃つごとに沈んでいく敵の体。
敵の艦載機の攻撃だって上手いことやり過ごせた。
戦争特有の、一種の病気ともとれる脳内麻薬の過剰分泌に、もはや日本兵は自分の体の制御すらままならない。
思うがままに、機銃を撃ちまくる。

しかし、機銃を気持ちよく撃っていたところに、突如として強烈な光が襲う。
一瞬にして五体を粉々に吹き飛ばされた日本兵たちは、その光が足元から来たという事すら認識することなく四散する。
アメリカ軍の、決死の工作員による斉田丸沈黙作戦は、秘密裏に成功したのである。

しかし作戦が成功し、日本兵が沈黙してなお、斉田丸は海から姿を消すことなく、そこに佇んでいたという。

斉田丸が沈黙した後は、今度こそ障害となるものが何もないことを確認し、Green Beachから進軍を開始する。
ようやくベシオ島西海岸へ上陸することができたアメリカ軍の1個大隊は、島の中央付近に居る日本兵との戦闘を避けるため、海岸を南へと進軍した、
同時に、ベシオ島北部(Red Beach)から上陸していたアメリカ軍海兵隊は、日本軍と交戦しながらも、南下することで日本軍のど真ん中を突っ切る形をとる。
結果として、日本軍は大きく損耗しながら、東西へとその戦力を分断されてしまうことになったのである。

日本軍からの無線連絡は、一瞬だけ通信が回復した22日午前に発信された「○○桟橋に通じる南北線付近で彼我対戦中」を最後に、通信が完全に途絶してしまっていた。


その5へ続く

2016/08/10

激戦タラワ環礁その3

1943年11月21日未明、まだ宵闇が海を覆いつくしている時間に、ベシオ島の西から北西にかけて待機していたアメリカ軍の輸送艦が、にわかに動き始めた。
アメリカ軍海兵隊による揚陸作戦の開始である。
19日から実施されていた戦艦からの訪韓射撃や艦載機による爆撃などにより、それなりのダメージを負ったと思われた日本軍に対し、アメリカ軍側の損害は今のところほぼゼロ。
一見焦土のように見えたベシオ島に、もはや生存者などいないのではないかと、半ば楽観視しながらの揚陸開始だった。


ベシオ島への上陸作戦は大きく3つに分かれており、それぞれ色で区分けされていた。

まず初めに揚陸を試みたのは上陸第1波である125輛のLVT(水陸両用トラクター)で、ベシオ島の西海岸にある水路からの侵入である(Green Beach)。
輸送船から続々と排出されるトラクター。
水陸両用なので、サンゴ礁のような浅瀬が多い地形にはもってこいの兵器である。
徐々に白み始める空。
ここに来て、ようやく日本軍の反撃が開始する。

耐えに耐えた2日間。

実を言うと、各トーチカの防御能力も、限界に来ていた。

来てくれて、ありがとう。

そして、さようなら。

トーチカの攻撃口が一斉に開き、海岸砲が突如出現した。

一斉に火を噴く、ベシオ島西海岸の砲台。
ほぼ動かない的に近いトラクターは、砲撃の格好の餌食となり、かなりの数のトラクターが沈められることになる。
結局、この時点での水陸両用トラクターによる上陸は叶わず、残ったトラクターは一時撤退を余儀なくされる。

しかし、ここで黙って見ているわけがないのが、同じく西海岸にいた、戦艦メリーランド。

照準器を除く主砲の射撃手の口角がニヤリと上がる。
前日までの砲撃と違うところ、それは、攻撃目標であるトーチカの「攻撃口」が開いているという事である。
Hey Jap、その間抜けな口に鉛玉ぶち込んでやるぜ!

FIREのかけ声と共に響く主砲の爆音。
砲塔から飛び出す、軽自動車を軽く上回る重さの砲弾。
その砲弾は、音速を超える速度で口が開いたトーチカへ直撃した場合、一撃でその機能を全て奪い去る。

各個撃破されていくトーチカ。

そして、メリーランドが放った砲弾の一つが、日本軍の保有する弾薬庫に着弾した。
その瞬間にまきおこる、島を揺り動かすほどの大爆発。

結果として、西海岸はメリーランド一隻のみの活躍により無効化・制圧されてしまう。


同時刻、海兵隊による上陸部隊がベシオ島北部から駆逐艦二隻を伴い、上陸を開始していた。


北部からの上陸部隊は、3拠点の同時制圧のため三つに分けられ、さらにそれらが前衛部隊、後衛部隊に分けられている。
このうち前衛3部隊は水陸両用トラクターに乗った海兵隊によって構成され、そのあとに戦車や野砲などを積んだ上陸用舟艇が続いた。
まずは三分間隔でトラクターが続々と出撃する。
北から進攻した上陸部隊にとって幸運だったのは、北側に配置された海岸砲が、西海岸よりも少なかったことである。
上陸部隊に同行した駆逐艦二隻による援護射撃もある程度の効果があったものとも思われる。
それにより、多数のトラクターが直撃弾を受けて沈んでいく一方で、機銃によるダメージのみで済んだトラクターも数多くあった。
結果として生き残ったトラクターは密集隊形を取りながら進むことで難を逃れ、3つの前衛部隊がそれぞれ海岸への到着に成功する。
しかし、それでも各トラクターが受けたダメージは相当のもので、全トラクターはその時点で破棄されることとなった。

前衛部隊が海岸に到着するのを待たずして、後衛部隊が輸送船を出撃する。
目指すは、前衛部隊が確保してくれているであろう海岸それぞれ3拠点、である。
物資を積んだ上陸用舟艇が海岸へ向けて進んでいく。
しかし、海岸から数百メートルも残っている箇所で、なぜか船底が海底に着床してしまい、それ以上先へ進めない。

珊瑚礁による、天然のトラップ発動である。
Red Beach 3からの景色。非常に遠浅なのが見て取れる。

珊瑚礁で形成されているタラワ島は、海岸からかなり遠くまでが遠浅の海となっている。
潮の満ち引きで波打ち際が百メートル以上前後する箇所も、普通に存在する。
水深が1.2m以上なければ先へ進めない上陸用舟艇は、そういう意味では珊瑚礁海域においては極めて不利な船であると言わざるを得ない。

仕方なく、海岸まで残り数百メートルの地点から、徒歩による進軍を行うことになった海兵隊。
当然、海中を歩く人間の速度などたかが知れている。
更に、アメリカ海兵隊は、それぞれ全重量2,30㎏にも及ぶ装備品を抱えての行軍であった。
付け加えて、海岸へ続く遠浅の海は珊瑚礁という自然が作り出したものである。
当然、完全なまっ平というわけではない。
ところどころ浅くなったり、逆に深くなっていたりする箇所がある。
そして、その深みに足を踏み入れてしまった海兵隊はその装備の重量により沈み、溺れてしまう者すらいたという。
当然、陸からの機銃掃射にもさらされ、ここでアメリカ軍は多数の死傷者を出してしまう。

日が完全に上りきった午前6時すぎ、北部上陸部隊の苦戦を感じた上陸作戦の指揮官は、艦隊への援護射撃と航空支援を要請する。
その要請をうけ、ベシオ島の西海岸沖からベシオ島へ向け、メリーランド、コロラドを含む戦艦3隻と、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻による一斉射撃が、ベシオ島へ降り注いだ。
先に上陸した前衛部隊からの、無線電話による詳細な偵察情報付きの砲撃は、より正確に日本軍の拠点の急所をとらえ、確実に戦力を削いでいった。

徐々に増えていく日本側の負傷兵。
そこで日本側のトップであった柴崎恵次少将は、鉄筋コンクリートで作られて堅牢であった司令部を負傷者救命用の治療所として提供し、自らを含む作戦司令部の面々をベシオ島南部の防空壕へと移すことにした。
ベシオ島西部からの砲艦射撃が開始して約6時間後の12時、防空壕へ移動した直後に戦艦からの砲弾が、まさにその防空壕へと直撃し、司令部が壊滅。
柴崎少将を含む参謀、司令部員の全てがその時点で戦死してしまう。

大将、討ち死に。

この、日本軍にとっては致命的であるダメージの司令塔の喪失は、しかしそれと同じくらい大きなまた別のダメージにより、日本軍全体への情報伝達を遅らせてしまうことになる。
それが、電話連絡回線の切断である。
島を一周するような形で形成された回線は、いたるところで分断されてしまい、各トーチカや防空壕、司令部などの間での連絡手段が、1日目にして喪失してしまった。
各トーチカを結ぶ地下通路があるにせよ、その後、日本軍の各戦略拠点は、それぞれ個別に動かざるを得なくなってしまった。
言い換えれば、部隊同士連携しての戦術的な戦闘ができなくなった、という事を意味する。

こうして、日本軍の頭脳と神経を同時に奪い去ることに成功した砲艦射撃であるが、しかしそれでも、日本軍の士気は未だ健在であった。

持ちうる砲弾を打ち尽くし、徐々に止む砲艦射撃。
全部隊の上陸が完了した海兵隊。
しかし、輸送船を出発した5000名のうち約3分の1が死傷し、戦闘不能になってしまっていた。

双方ともに甚大なダメージを被った戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、この長い1日はまだ終わらない。

次に待っているのは、海兵隊と日本兵との、陸上における白兵戦である。

可能な限り、拠点を広げておきたいアメリカ海兵隊。
これに対して自己の拠点だけは絶対に死守したい、日本海軍陸戦隊の各個拠点兵たちはトーチカに籠り、断固として抵抗を続ける。

アメリカ海兵隊は、ここで一つの戦法を用いる。
それが「溶接バーナーとコルク栓抜」戦法である。
簡単な話、火炎放射器と爆薬を用いて各トーチカを一つずつ虱潰しに壊していくというものだ。

まずは火炎放射器をトーチカへ放射。
人が居なくなったことを確認した後、爆薬でトーチカを内部から破壊。
手榴弾で内部から爆破することで、同時に地下通路も潰せるというおまけ付きである。

こうして、アメリカ軍はこの日が暮れるまでに、レッドビーチ1の西半分の縦深140mとレッドビーチ2,3の境界の桟橋を中心とした幅460m、縦深260mにわたって確保することに成功したのである。

1日目終了時点での、ベシオ島北部の勢力図概略

その4へ続く

2016/08/02

激戦タラワ環礁その2

ソロモン諸島において辛くも勝利したアメリカ軍は、その後も攻勢を継続する。
特に中太平洋海域付近においては、当時最新鋭の航空母艦であったエセックス級航空母艦エセックス、ヨークタウン、インディペンデンスなどによる艦載機爆撃が頻繁に行われた。
被害にあったのはウェーク島、ギルバート諸島、マーシャル諸島などであるが、特に日本へ衝撃を与えたのは、南鳥島への空襲であった。


1943年9月1日、南鳥島が空襲にあい、島内施設の70%が破壊されるという壊滅的打撃を受けている。
これまで最前線であったマーシャル・ギルバート諸島近海から大きく西に侵入を許してしまうことになったこの空襲は、日本にある種の危機感を抱かせるに十分なものであったであろう。

この時、日本軍においては海軍と陸軍の間で、今後の戦局に関する意見に大きな隔たりが発生していた。
陸軍の主張は「敵と距離を置くことで、後方の守りを固める」ことであり、要は前線の後退である。
これに対する海軍の主張は、「前線の後退は戦勝の機会を自ら放棄することであり、前方をまず強化すべき」だった。

前線で何とか戦果を上げたかった日本海軍は、アメリカ海軍とのマーシャル諸島沖での艦隊決戦に拘り、その後「Z作戦」と称されるマーシャル諸島沖への出撃を2度にわたり実施する。
戦艦大和、長門、航空母艦瑞鶴、翔鶴、瑞鳳をはじめとした大規模な基地航空部隊、機動部隊が前線基地トラック島やラバウル基地から出撃するが、いずれの出撃も敵軍との会敵は叶わず、全て空振りに終わってしまう。
この2度にわたる出撃による重油燃料の消費により、トラック島においては大規模な艦隊行動が困難となってしまった。
この空振りによる損失は甚大なもので、ギルバート諸島・マーシャル諸島においてはその後、海軍の機動部隊による援護なしの陸上防衛を余儀なくされることになるのである。

海上機動部隊による援護なしの陸上防衛というのが一体何を意味するのか?

それは海上から陸上への、戦艦の艦砲射撃や空母による爆撃を止める手立てがない、という事である。
これらの艦隊がそもそも島に着く前に海上にて会敵し、撃退ができないまでも戦力をそぐことができたのであれば、その後の戦局もまた変わっただろう。


1943年11月10日、満を持して、ハワイの真珠湾からギルバート諸島攻略艦隊が出撃する。

その内訳は、陸上揚陸作戦を実働するリッチモンド・ターナー少将率いる第54任務部隊と、揚陸作戦を支援するポウノール少将率いる第50任務部隊であり、それらを旗艦、重巡洋艦インディアナポリスに乗っていたレイモンド・スプルーアンス中将が率いていた。
ポウノール少将率いる第50任務部隊は空母11隻からなる大艦隊で、タラワ島上陸の2日前である11月19日に日本海軍の航空隊と戦闘を開始する。
日本側の150機という戦力に対し、アメリカ側の航空機の数は660機。
圧倒的な数の差をもって、日本からすれば敗北を喫することになった航空戦は、タラワ・マキンの戦いとは別に「ギルバート諸島沖航空戦」と呼ばれ、以降4回にわたって戦闘を繰り広げることになる。

ギルバート諸島沖航空戦が開始したのと時を同じくして、ターナー少将率いる第54任務部隊がタラワ・マキン島へと攻撃を開始する。
真珠湾から出発し、北側から回り込む形でタラワ環礁、ベシオ島の西側へと難なく進攻を進めた第54任務部隊は、到着するや否や、戦艦からの艦砲射撃を開始した。
実際に砲撃を行ったのはコロラド級戦艦コロラドと、同級戦艦メリーランド。
いずれも主砲として40.6cm連装砲を4基(計8門)も備える超弩級戦艦で、日本の戦艦長門、陸奥と並ぶ「世界7大戦艦(ビッグセブン)」のうちの二つでもある。
重量1,016kgの砲弾が31km先の標的まで届く主砲はベシオ島のみならず、タラワ環礁全域が的になるほどの射程を持つ。
砲撃と同時に、第50任務部隊からの航空支援爆撃も実施され、ベシオ島は戦艦からの砲撃と、爆撃機からの爆撃に同時にさらされることになる。

3日に渡って繰り返し行われたベシオ島への艦砲射撃及び爆撃であるが、この時点での人的被害はほとんどなかったという。
理由は、要塞として建設したトーチカの堅牢さにあった。
本来トーチカとは鉄筋コンクリートで作成した防御陣地をいうが、ここタラワ島にはそのような物資はなかったため、骨組みとしてヤシの木、コンクリートの代わりに岩や砂を使用した。
半地下型で作成されることになったこのトーチカは、どんな爆撃や砲撃もヤシの木の弾力と砂により、衝撃を吸収されてしまう。
そんなトーチカはベシオ島の海岸を埋め尽くすように建設され、全てが地下通路で連絡されていた。
さらに、全ての隣り合うトーチカ同士が機銃による十字砲火を行えるという死角のなさであった。

しかし、事前に航空写真や潜水艦からの写真により、アメリカ軍は各トーチカの正確な場所を把握していた。
そんなアメリカ側の戦艦からしてみれば、動かない的に砲撃を当てるだけの簡単なお仕事だったはずである。

砲撃と爆撃を繰り返して3日間、ベシオ島は一見すると焦土と化した。

爆撃になぎ倒され、炭と化したヤシの木。

砲撃によってえぐり取られた砂浜。


































しかし、彼らは生きていた!















その3へ続く

2016/07/30

激戦タラワ環礁その1

昭和天皇による直々の敗戦宣言により太平洋戦争が終了して間もなくの1945年12月8日、アメリカにて、とある航空母艦が就役する。

その名を、エセックス級航空母艦タラワという。

就役後、この空母は大西洋や朝鮮半島など世界を転々とさせられた挙句、結局まともな実戦を一つも経ることなく、ほとんど原形のままスクラップにされたのが、1967年の事である。
その後、世界初となるウェルドック搭載型強襲揚陸艦へその名が引き継がれ、1976年から2009年までの33年間、タラワ級強襲揚陸艦一番艦タラワは、主に人的支援任務などにおいて幅広く活躍することになる。

ここに出てくる「タラワ」という名前の二隻の艦は、皆さんご存知の通り、現キリバス共和国の首都タラワから来ている。
なぜ、アメリカからしてみれば縁もゆかりもなさそうな、こんな小さな島の名前が軍艦にまで用いられているのだろうか?
その秘密を知るためには、太平洋戦争における、アメリカ海兵隊を震撼させた「タラワの恐怖」を紐解かなければならない。

1941年12月8日に太平洋戦争(当時は大東亜戦争)が開戦すると、その後間もない1941年12月10日に、それまでイギリス統治下にあったタラワ環礁を含むギルバート諸島を、ほぼ無抵抗のまま日本の海軍陸戦隊は占領に成功する。
ギルバート諸島の他にも、近太平洋の各諸島が占領の矛先となっており、1942年までにフィリピン、インドネシア、パプアニューギニアなどを含む、アジアから太平洋にかけての広範囲に渡ってが日本の占領下に堕ちることになった。

その後、中太平洋海域における主な戦場はマーシャル・ギルバート諸島以外の海域となり、
1942年5月にミッドウェー海戦において大敗を喫した後は、主戦場はソロモン諸島へと移る。
重要性が低いと思われていたギルバート諸島においては駐在兵すら置かれることも珍しく、唯一陸戦隊が数十名駐在していたのがタラワ島北部、ギルバート諸島最北の島マキン島であった。


事態が動き始めたのは、ミッドウェー海戦から三ヶ月経過後の1942年8月17日。
アメリカ軍がマキン島へ駐在する日本海軍陸戦隊へ奇襲作戦を開始したのである。
潜水艦にて上陸したアメリカ海兵隊221名は、17日の午前2時に潜水艦ノーチラスから上陸、奇襲を仕掛け、日本海軍71名、軍属2名のうち46名を戦死・行方不明とした後、同日16時までに撤収を開始している。

この作戦のアメリカ軍側の狙いは、当時激化していたソロモン諸島における戦いから、日本軍の意識をそらすためであった。
ソロモン諸島の戦いへのマキン島へのアメリカ軍奇襲が与えた影響がどれほどのものかはわからないが、残念ながらマキン島奇襲は、中部太平洋海域の戦略的な重要性を日本軍へ知らしめることになったのである。
この奇襲事件を受けたのち、日本海軍はギルバート諸島のうちマキン島、タラワ島、アベママ島への戦力増強を開始する。
タラワ環礁最西端のベシオ島へは特に入念な武装化が行われ、島はほぼ要塞と化した。
タラワ環礁に存在する島々を総合して「タラワ島」という。この島々のうち、最西端に位置するのが、タラワの戦いにおける最激戦地となったベシオ島である。ベティオ島と表記されているが、正しくは「ベシオ」と発音する。

1943年7月にギルバートの防衛指揮官としてベシオ島へ着任した第3特別根拠地隊司令官柴崎恵次少将は、島の防御施設を視察して「たとえ、100万の敵をもってしても、この島をぬくことは不可能であろう」と豪語したと言われている。


その頃、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナル島への進攻を開始していた。


ソロモン諸島の戦いは、ミッドウェー海戦と並んで日本人にはなじみの深い戦局であるが、日米含めて数多くの軍艦が沈んでいることから、ガダルカナル島の北部海域は今も「アイアンボトムサウンド」という名称で有名でもある。

このガダルカナル島を含めた、ソロモン諸島を航空基地として確保するための作戦は「ウォッチタワー作戦」と呼ばれ、これまで防戦一方であったアメリカ軍からの、太平洋戦争において初の、対日反攻作戦となった。
同作戦は日本軍の飛行場基地があるガダルカナル島への進軍(1942年7月6日)にて本作戦における最大の激戦を迎えるが、それも1942年12月31日のガダルカナル島からの撤退命令により、日本軍側の敗北が決定する。

その後、ソロモン諸島における戦いは日本にとっては消耗戦の一途を辿り、アメリカ軍側はその後、どのように進行するかで議論が分かれることになる。

ご存じ、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが提唱したのは、このままソロモン諸島から西へ進み、パプアニューギニアを経てラバウルを攻略し、フィリピンへと歩みを進めるための足掛かりとする「カートホイール作戦」。
これに対し、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツが提唱したのは、一旦マーシャル・ギルバート諸島を制圧して中部太平洋海域の制空権を確保した後、日本本土へ進攻を進めるべきであるとする「ガルヴァニック作戦」。

双方譲らぬ議論は最終的にアメリカ統合参謀本部に決定が委ねられ、当時の合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトにより、「双方同時に推し進める」という決定が下される。


ミッドウェー海戦の作戦立案をしていたチェスター・ニミッツにより進められることになったギルバート諸島攻略であるが、その攻撃の最初の矛先となったのは、ソロモン諸島から最も近い日本海軍の駐在地であるギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママの3環礁であった。


その2へ続く。