2016/08/18

戦後70余年の炎の揺らめき

2016年7月24日、青年海外協力隊のキリバス国派遣隊員のうち、有志の7名がベシオ島の東端に集まっていた。
集合場所を今一つ理解していなかった私は、同居人の青野氏と共にバスに揺られていたのだが、気が付くと集合場所を通り越してしまっていたようだ。
早めに家を出ていたという事もあって時間に余裕のあった私たちは、そのままベシオ島をバスで一周したのち、集合場所へ時間通りに到着した。
遅れて、その日の参加者たちが続々と集合場所へと集まってくる。
その面々は、ことごとく日本人だ。

「アベさん、彼らは、どうやって見つかるものなんですか?」
「ああ、こういうのはキリバス人がゴミ穴掘ろうとしたときに見っかったりすることが多いね。ほら、今あそこらへんって一帯に民家が建ってるでしょ」

ああ、なるほど、やっぱりベシオの地下から見つかるものなのか。
そう思いながら、綺麗に並べられていく骨を見下ろす。
ちなみに、アベさんというのはかれこれキリバスへ住み続けて20年以上の、キリバスの達人だ。
キリバスへ来る際は、この人を通しておけばまず間違いはない。
なお日本人。

70年の時を経て、完全に茶色く変色してしまった骨は、一見するとそれが本当に日本人の、いや、人間の骨だったのかどうかすら疑わしい。
しかし、中には頭蓋骨の頭頂部がそのまま残っているものもあり、それが確実に人体の一部を構成していたという痕跡が見て取れるものも、確かに存在した。
そこに集められた人骨は、全部で19柱。
例外なく、タラワ島の戦いによって没した旧日本帝国海軍陸戦隊の方々だ。
ベシオ島の地中から発掘され、すでに専門家による鑑定が完了している。

柱ごとに、発掘された骨の数にはかなりバラつきがあった。
かたや、片手で掬えるくらいしか残っていないものもあれば、これ以上選別ができないという理由で、3柱分まとめてランドセルがいっぱいになるくらいの分量になったものすらある。
鑑定をしたのは、わざわざこのためにやってきた法医学の権威という、大学の教授だ。
キリバスに居る青年海外協力隊員のうち、医療関係隊員の協力を得ながら、前日の7月23日には作業を全て終わらせていた。
その日に供養されたのは、この骨は確実にタラワ島の戦いで没した東洋人である、というのが確実である19柱だ。

見つかった骨は、基本的にはベシオの地下から掘り起こされたもので、柱によっては遺留品と共に発掘されることもあったそうだ。
出てきた遺留品は銃弾、軍刀の鞘、ヘルメットの一部、赤チンの容器、水筒など多岐にわたる。
ほぼ全ての遺留品は70余年という年月をまじまじと実感させてくれるほどボロボロで、例外なく錆にまみれていた。
そういった遺留品のすぐそばから見つかった骨で、日本人としての痕跡などが骨に見られれば、それが旧日本海軍の軍人であったとして特定されるのだという。
少しだけ教授直々に解説してもらったが、正直全く分からない。

ちなみに、銃弾といった危険物はキリバス警察へ引き渡されていきました。
爆発なんてしないだろうけど。

骨の中には、金の詰め物が施してある歯なんていうのも見つかったりしたらしい。
その時代で歯に金を入れるとなると、まあ相当なお金持ちである。
ひょっとしたら士官の一人だったのでは、などと思ったりもしたが、70年経った今となってはそれが誰だったのかを知る術は、何一つとして無い。
彼らはもはや、自分が誰だったかを知ってもらうこともないまま、弔われることになるのだ。

集められた19柱は、このキリバスでできうる限りの最大限をもって、丁重に火葬された。
燃やすための薪の一本ですら、ここで調達するのは容易い事ではない。
そもそも、火葬をするなどという宗教的背景すら、キリスト教が大多数を占めるキリバスには存在しない。

燃え上がる炎を前に、参加者全員で黙祷を捧げる。
もうすでに骨なので火葬は必要ないと思われるかもしれないが、そこは宗教上の理由と、特に疫学上の理由から、必ず火にくべる必要があるのだそうだ。
なにせ彼らはこの後、飛行機に乗って、日本へ帰るのだから。

頑張ってくれて、ありがとう。
先に、日本へお帰り下さい。
1年半後、私も日本へ帰ったら、皆様の元へ必ずお参りさせて頂きます。

彼らの存在は、かつてこの地において激戦が繰り広げられたという、これ以上ない明確な証拠だ。
そして、目の前で燃え盛る19柱分の骨以外にも、まだまだ大人数の骨がベシオ島の地下には眠っている。
その上には、今やベシオ港で栄えたキリバスの住人たちが住居を構え、日々暮らしている。
彼らを押しのけて発掘作業をする、などというのはもはや不可能に近い。
彼らが偶然発見してくれるか、もしくはアメリカ側の発掘団がついでに発見してくれるのを、待つしかないのだ。

ちなみに、アメリカ側も戦没者の発掘にはかなり力を入れている。
特に、どこに誰をどういった経緯で葬ったか、といった情報はかなり詳細に残っているそうで、その情報を元に基金が設けられ、発掘団が結成されるのだとか。
キリバスのみならず、世界各国にアメリカの遺骨発掘団は派遣されているそうだ。

今回キリバスにて開かれた慰霊会は、史上3度目だという。
1回目はそれこそ10年以上前で、ご遺族の方々も大勢このキリバスへいらっしゃったそうだ。
2回目は今回の2,3年前で、3回目となる今回は、たまたま私の任期中に開かれることになった。
毎年必ず開かれるというわけでなはいレアイベントに遭遇し、参加できたのはまさに幸運としか言いようがない。
死者を憩うという場でもあるので幸運というのは些か不謹慎かもしれないが、それでも私はこの巡りあわせに感謝した。

その日は、乾季にしては珍しく久しぶりに早朝に大雨が降ったにもかかわらず、会が開かれる頃には赤道直下特有の強烈な日差しが照り付けていた。
感じる肌のヒリヒリは、燃える炎の赤外線によるものだったのか、それとも降り注ぐ日差しによるものだったのか。
ただ、これだけ綺麗に晴れていれば、天に昇るには絶好の日和だったであろう。
一説によると、戦争で死んでその地に残されてろくに供養すらされなかった人は、祖国にも帰れず成仏もできずに、その地を永遠に彷徨うのだという。

戦没者全員が無事、この地への呪縛から解き放たれんことを、切に願う。

そしてこれ以上、彼らのような歴史の犠牲者が出ないことを、切に願う。

茶色く変色していた骨は、素手では触れないほどの高温により、真っ白になっていた。


以下、ベシオ島に今も残る戦跡関連の写真を載せておきます。




今回、慰霊会が行われた場所にある固定砲台。
後ろにももう一台、同じものがある。
最東端であるという事と、得られた情報を鑑みると、これらは使用されなかった可能性が高い。


 ベシオ島最西端にある固定砲台。
今は現地の子供たちの遊び場になっている。


 地下防空壕の入り口、だったと思われるもの。
今は周りに現地人が住み着いている。




防空壕跡と思われるもの。


司令塔跡地。鉄筋コンクリートで固めてあるため非常に堅牢。
現在は利用されていない。

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