2016/08/02

激戦タラワ環礁その2

ソロモン諸島において辛くも勝利したアメリカ軍は、その後も攻勢を継続する。
特に中太平洋海域付近においては、当時最新鋭の航空母艦であったエセックス級航空母艦エセックス、ヨークタウン、インディペンデンスなどによる艦載機爆撃が頻繁に行われた。
被害にあったのはウェーク島、ギルバート諸島、マーシャル諸島などであるが、特に日本へ衝撃を与えたのは、南鳥島への空襲であった。


1943年9月1日、南鳥島が空襲にあい、島内施設の70%が破壊されるという壊滅的打撃を受けている。
これまで最前線であったマーシャル・ギルバート諸島近海から大きく西に侵入を許してしまうことになったこの空襲は、日本にある種の危機感を抱かせるに十分なものであったであろう。

この時、日本軍においては海軍と陸軍の間で、今後の戦局に関する意見に大きな隔たりが発生していた。
陸軍の主張は「敵と距離を置くことで、後方の守りを固める」ことであり、要は前線の後退である。
これに対する海軍の主張は、「前線の後退は戦勝の機会を自ら放棄することであり、前方をまず強化すべき」だった。

前線で何とか戦果を上げたかった日本海軍は、アメリカ海軍とのマーシャル諸島沖での艦隊決戦に拘り、その後「Z作戦」と称されるマーシャル諸島沖への出撃を2度にわたり実施する。
戦艦大和、長門、航空母艦瑞鶴、翔鶴、瑞鳳をはじめとした大規模な基地航空部隊、機動部隊が前線基地トラック島やラバウル基地から出撃するが、いずれの出撃も敵軍との会敵は叶わず、全て空振りに終わってしまう。
この2度にわたる出撃による重油燃料の消費により、トラック島においては大規模な艦隊行動が困難となってしまった。
この空振りによる損失は甚大なもので、ギルバート諸島・マーシャル諸島においてはその後、海軍の機動部隊による援護なしの陸上防衛を余儀なくされることになるのである。

海上機動部隊による援護なしの陸上防衛というのが一体何を意味するのか?

それは海上から陸上への、戦艦の艦砲射撃や空母による爆撃を止める手立てがない、という事である。
これらの艦隊がそもそも島に着く前に海上にて会敵し、撃退ができないまでも戦力をそぐことができたのであれば、その後の戦局もまた変わっただろう。


1943年11月10日、満を持して、ハワイの真珠湾からギルバート諸島攻略艦隊が出撃する。

その内訳は、陸上揚陸作戦を実働するリッチモンド・ターナー少将率いる第54任務部隊と、揚陸作戦を支援するポウノール少将率いる第50任務部隊であり、それらを旗艦、重巡洋艦インディアナポリスに乗っていたレイモンド・スプルーアンス中将が率いていた。
ポウノール少将率いる第50任務部隊は空母11隻からなる大艦隊で、タラワ島上陸の2日前である11月19日に日本海軍の航空隊と戦闘を開始する。
日本側の150機という戦力に対し、アメリカ側の航空機の数は660機。
圧倒的な数の差をもって、日本からすれば敗北を喫することになった航空戦は、タラワ・マキンの戦いとは別に「ギルバート諸島沖航空戦」と呼ばれ、以降4回にわたって戦闘を繰り広げることになる。

ギルバート諸島沖航空戦が開始したのと時を同じくして、ターナー少将率いる第54任務部隊がタラワ・マキン島へと攻撃を開始する。
真珠湾から出発し、北側から回り込む形でタラワ環礁、ベシオ島の西側へと難なく進攻を進めた第54任務部隊は、到着するや否や、戦艦からの艦砲射撃を開始した。
実際に砲撃を行ったのはコロラド級戦艦コロラドと、同級戦艦メリーランド。
いずれも主砲として40.6cm連装砲を4基(計8門)も備える超弩級戦艦で、日本の戦艦長門、陸奥と並ぶ「世界7大戦艦(ビッグセブン)」のうちの二つでもある。
重量1,016kgの砲弾が31km先の標的まで届く主砲はベシオ島のみならず、タラワ環礁全域が的になるほどの射程を持つ。
砲撃と同時に、第50任務部隊からの航空支援爆撃も実施され、ベシオ島は戦艦からの砲撃と、爆撃機からの爆撃に同時にさらされることになる。

3日に渡って繰り返し行われたベシオ島への艦砲射撃及び爆撃であるが、この時点での人的被害はほとんどなかったという。
理由は、要塞として建設したトーチカの堅牢さにあった。
本来トーチカとは鉄筋コンクリートで作成した防御陣地をいうが、ここタラワ島にはそのような物資はなかったため、骨組みとしてヤシの木、コンクリートの代わりに岩や砂を使用した。
半地下型で作成されることになったこのトーチカは、どんな爆撃や砲撃もヤシの木の弾力と砂により、衝撃を吸収されてしまう。
そんなトーチカはベシオ島の海岸を埋め尽くすように建設され、全てが地下通路で連絡されていた。
さらに、全ての隣り合うトーチカ同士が機銃による十字砲火を行えるという死角のなさであった。

しかし、事前に航空写真や潜水艦からの写真により、アメリカ軍は各トーチカの正確な場所を把握していた。
そんなアメリカ側の戦艦からしてみれば、動かない的に砲撃を当てるだけの簡単なお仕事だったはずである。

砲撃と爆撃を繰り返して3日間、ベシオ島は一見すると焦土と化した。

爆撃になぎ倒され、炭と化したヤシの木。

砲撃によってえぐり取られた砂浜。


































しかし、彼らは生きていた!















その3へ続く

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