2016/07/30

激戦タラワ環礁その1

昭和天皇による直々の敗戦宣言により太平洋戦争が終了して間もなくの1945年12月8日、アメリカにて、とある航空母艦が就役する。

その名を、エセックス級航空母艦タラワという。

就役後、この空母は大西洋や朝鮮半島など世界を転々とさせられた挙句、結局まともな実戦を一つも経ることなく、ほとんど原形のままスクラップにされたのが、1967年の事である。
その後、世界初となるウェルドック搭載型強襲揚陸艦へその名が引き継がれ、1976年から2009年までの33年間、タラワ級強襲揚陸艦一番艦タラワは、主に人的支援任務などにおいて幅広く活躍することになる。

ここに出てくる「タラワ」という名前の二隻の艦は、皆さんご存知の通り、現キリバス共和国の首都タラワから来ている。
なぜ、アメリカからしてみれば縁もゆかりもなさそうな、こんな小さな島の名前が軍艦にまで用いられているのだろうか?
その秘密を知るためには、太平洋戦争における、アメリカ海兵隊を震撼させた「タラワの恐怖」を紐解かなければならない。

1941年12月8日に太平洋戦争(当時は大東亜戦争)が開戦すると、その後間もない1941年12月10日に、それまでイギリス統治下にあったタラワ環礁を含むギルバート諸島を、ほぼ無抵抗のまま日本の海軍陸戦隊は占領に成功する。
ギルバート諸島の他にも、近太平洋の各諸島が占領の矛先となっており、1942年までにフィリピン、インドネシア、パプアニューギニアなどを含む、アジアから太平洋にかけての広範囲に渡ってが日本の占領下に堕ちることになった。

その後、中太平洋海域における主な戦場はマーシャル・ギルバート諸島以外の海域となり、
1942年5月にミッドウェー海戦において大敗を喫した後は、主戦場はソロモン諸島へと移る。
重要性が低いと思われていたギルバート諸島においては駐在兵すら置かれることも珍しく、唯一陸戦隊が数十名駐在していたのがタラワ島北部、ギルバート諸島最北の島マキン島であった。


事態が動き始めたのは、ミッドウェー海戦から三ヶ月経過後の1942年8月17日。
アメリカ軍がマキン島へ駐在する日本海軍陸戦隊へ奇襲作戦を開始したのである。
潜水艦にて上陸したアメリカ海兵隊221名は、17日の午前2時に潜水艦ノーチラスから上陸、奇襲を仕掛け、日本海軍71名、軍属2名のうち46名を戦死・行方不明とした後、同日16時までに撤収を開始している。

この作戦のアメリカ軍側の狙いは、当時激化していたソロモン諸島における戦いから、日本軍の意識をそらすためであった。
ソロモン諸島の戦いへのマキン島へのアメリカ軍奇襲が与えた影響がどれほどのものかはわからないが、残念ながらマキン島奇襲は、中部太平洋海域の戦略的な重要性を日本軍へ知らしめることになったのである。
この奇襲事件を受けたのち、日本海軍はギルバート諸島のうちマキン島、タラワ島、アベママ島への戦力増強を開始する。
タラワ環礁最西端のベシオ島へは特に入念な武装化が行われ、島はほぼ要塞と化した。
タラワ環礁に存在する島々を総合して「タラワ島」という。この島々のうち、最西端に位置するのが、タラワの戦いにおける最激戦地となったベシオ島である。ベティオ島と表記されているが、正しくは「ベシオ」と発音する。

1943年7月にギルバートの防衛指揮官としてベシオ島へ着任した第3特別根拠地隊司令官柴崎恵次少将は、島の防御施設を視察して「たとえ、100万の敵をもってしても、この島をぬくことは不可能であろう」と豪語したと言われている。


その頃、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナル島への進攻を開始していた。


ソロモン諸島の戦いは、ミッドウェー海戦と並んで日本人にはなじみの深い戦局であるが、日米含めて数多くの軍艦が沈んでいることから、ガダルカナル島の北部海域は今も「アイアンボトムサウンド」という名称で有名でもある。

このガダルカナル島を含めた、ソロモン諸島を航空基地として確保するための作戦は「ウォッチタワー作戦」と呼ばれ、これまで防戦一方であったアメリカ軍からの、太平洋戦争において初の、対日反攻作戦となった。
同作戦は日本軍の飛行場基地があるガダルカナル島への進軍(1942年7月6日)にて本作戦における最大の激戦を迎えるが、それも1942年12月31日のガダルカナル島からの撤退命令により、日本軍側の敗北が決定する。

その後、ソロモン諸島における戦いは日本にとっては消耗戦の一途を辿り、アメリカ軍側はその後、どのように進行するかで議論が分かれることになる。

ご存じ、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが提唱したのは、このままソロモン諸島から西へ進み、パプアニューギニアを経てラバウルを攻略し、フィリピンへと歩みを進めるための足掛かりとする「カートホイール作戦」。
これに対し、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツが提唱したのは、一旦マーシャル・ギルバート諸島を制圧して中部太平洋海域の制空権を確保した後、日本本土へ進攻を進めるべきであるとする「ガルヴァニック作戦」。

双方譲らぬ議論は最終的にアメリカ統合参謀本部に決定が委ねられ、当時の合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトにより、「双方同時に推し進める」という決定が下される。


ミッドウェー海戦の作戦立案をしていたチェスター・ニミッツにより進められることになったギルバート諸島攻略であるが、その攻撃の最初の矛先となったのは、ソロモン諸島から最も近い日本海軍の駐在地であるギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママの3環礁であった。


その2へ続く。

2016/07/20

公正と平等

ここ暫くエントリーに期間が開いたのには、まあいくつか理由がある。
一つは英語の学習に関連している。
もう一つは、単純にブログへのモチベーションの問題だ。

私がこの国に来た理由の一つに「英語の習得」がある。
もちろんそれだけが理由ではないが、それ「も」理由の一つである。
であるならば、日本語に触れるような機会は可能な限り減らすべきである、という考えに至ったのだ。
初めは迷った。
ブログに書きたいことは山ほどある。
書こうと思えばいくらだって書ける。
しかし、例えば週1でエントリーをしようとすると、少なくとも1週間に1回は日本語で文章を考える時間が生まれてしまう。
しかも、一つエントリーを書こうとすると、どうしたって数時間は必要になるのだ。
そうすることで、英語に触れ続けた期間がリセットされてしまうのではないかと思った。

さて、そんなこんなで初めてみたノーブログ生活であるが、結局たどり着いた結論は、私は「日本が好き」で「日本語が好き」であるという事だ。
昔から国語は大の苦手教科で、小中高を通して国語の成績は「3」を超えたことがない。
私の両親はお願いだから私の過去の通信簿を引っ張り出すようなことはしないでくださいお願いしますなんでもしますから。

いや、してもいいけどさ・・・。

まあそんな私が、よくもこんなセリフをぬけぬけとぬかせるようになったものである。
やろうと思えば日本語を完全にシャットアウトすることだってできたはずの私は、気が付けば日本語を使ってしまっている。
ただそんな私でも、本当に徐々にではあるが、英語は上達してきてはいるようだった。
これまであまり円滑でなかった意思疎通が、円滑でないなりに少しヤスリがかけられ、表面の凸凹が少なくなってきたように感じる。

だから、なんというか、もう我慢しない、そう思うに至ったのだ。
英語の勉強は、もちろんする。
でも、日本語だって使う。
それで良いじゃないか。

ようやく半年、まだ半年。
これからあと1年半あるのだが、果たしてどれだけ英語は上達するか・・・。
未だにオーストラリア人同士がペチャクチャ喋っているのは全く聞き取れません。


さて話は変わるが、我々青年海外協力隊員にとって、赴任してから半年というのは一つの節目となる。
この時期に、それから後の1年半の活動計画の策定と提出を求められるのだ。
ちなみに、青年海外協力隊員には、義務として5回の報告書提出が求められている。
1回目は任国に到着してから3か月。
そして2回目が、任国に到着してから半年だ。
この報告書であるが、書く内容はそれぞれの回ごとにざっくりと決められており、今後の活動を左右することにもなる第2回報告書へは、前述した「今後の活動計画」なるものの記載を求められる。
要は、「残りの1年半なにすんの?」という事だ。


私は、このキリバスに着任してすぐ思ったのは、「あれ、まあ割と普通にシステム動いてんじゃん」ということだった。
当然それは偉大なる前任者達の功績なのであるが、「正直やることがない」とすら思った。
それでも、システムの内部を紐解くにつれて、次第に露わになっていく綻び。
それとは別に、ポロポロと上がってくる改善要望。
そんなこんなもあって、この半年で修正したプログラムの数は、ファイル数だけで120を超えた。
今後もこのペースで改修作業を続ければ、かなりの作業量となるはずである。
しかしそんなことは問題ではない。
私は本来、ここにただの作業員として来ているわけではないからだ。

本当ならば私の技術を伝えるべき現地技術者が別におり、その人へ指導をするのが私の最大の使命だったはずなのだ。
ところがフタを開けてみれば、最低限の技術を持つ人員すらチームにはおらず、新たにそのような人員がチームにアサインされる気配すらないときたものだ。
よくある事とはいえ、結果として私も作業員として活動しないわけにはいかなくなってしまった。
まあ、作業員としての活動は要請にもあったし、別に良いんだけどね。

さて、そんな今の私の状況であるが、今後の活動方針を考えるうえでポイントとなるのは、やはり「現地人が何を目標として動いているか」である。
現地人の現地人による現地人のための青年海外協力隊の活動である以上、現地人が目標を持っていればそれを無視して活動計画を立てるのは、もはや独りよがりの戯言に過ぎない。
運よく、私の勤める省「Ministry of Health and Medical Service(保健医療サービス省)」には、「Health Strategic Plan」なるものが存在しており、省をあげて国民の健康改善に取り組んでいる。

今回は、その計画の大目標を見てみることにする。

2012年から継続して実施されているこの健康戦略プランであるが、2015年までを区切りとして2016年から新たな計画がスタートしている。
と言っても、内容はそれまでの計画の焼き増しで、これまでやってきたことを少し改良して継続実施する、というものだ。
そこで掲げられている大目標は以下の通り。

To improve population health and health equity through continuous improvement in the quality and responsiveness of health services, and by making the most effective and efficient use of available resources

訳すと

保健サービスの品質と応答性の継続的改善と、有効な資源の最も効率的・効果的な利用の実現を通し、公衆衛生と保健公正を改善すること

となる。

ちなみに、Google先生を使ってもちゃらんぽらんな訳しかしてくれないので、幾分意訳が混じっている。
うん、なんとなく意味は分かる。
しかし困ったのが、「保健公正」ってなんなんだ?
平等に、広く医療サービスが国民全体に行きわたる事、みたいな意味で合ってるのか?
いやいや、ここで曖昧な理解は後に色々と軋轢を生むことになりかねん、という事で、調べてみました、「Health equity」。

ところが、この「Health equity」、日本語として適切な単語が存在するわけではないらしく、明確な定義も全く出てこない。
しょうがなく、英語のWikipediaに定義が載っていたので、これを参考にすることとした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Health_equity
そしてその中の記載によると、かなり面倒くさいことにこれ以外にも「Health equality」なる言葉が存在し、両者でどうやら意味が異なるらしい。

Health equity
Health equality

クッソ似てる。2文字しか違わねえ。

もう同じで良いじゃねえか。

日本語に訳せば、どちらも「保健公正」とか「保健平等」とか、なんとなく似たような意味になるだろう。
しかし、厳密にはその意味するところには違いがあるそうだ。

Wikipedia先生によると、

Health equity is different from health equality, as it refers only to the absence of disparities in controllable or remediable aspects of health.

訳すと

「保健公正」は「制御可能か、救済可能かという側面の保健に格差がない」という意味をもってのみ、「保健平等」とは異なる。

ハァ☆、ごめん、ちょっとわかんない。

ただ、わかりやすい例が後述されていたので、その例をかいつまんで説明する。

例えば、とある国民の平均年齢が著しく低い。
その原因は、国内の医療サービスへのアクセス手段が著しく欠落しているためであったとする。
となると、国民全員に等しく医療サービスが行き届かない訳なので、そこに「不平等」は存在しない。
著しく低い水準でありはすれど、それは平等なのである。

しかし、それは社会的に見れば当然、社会問題として指摘されうるべきものであるのは明白だ。
そういう意味でこの例では、保健の状況は「平等」だが「不公正」、「Equality」だが「Equity」ではない、ということである。

ちなみに、「不平等」であれば「公正」であることは有り得ない(と「Health Equity」の定義上はなっていると思われる)ので、ここにおいてのみ、equityはequalityを内包する単語として定義されることになる。


いやちょっと待て、その例でいうと、お金持ちならいくら医療サービスへのアクセスが悪かったって何かしらの方法で良い医療を受けることができるんじゃないか!?

と思った方、良いご指摘です。

しかし、それも「国外まで医療サービスを受けに行けば」の話である。
国内にいる限りサービスを満足に受けることができないのであれば、やはりそこに「不平等」があるとは言い難いのだ。

キリバスという国に目を向けてみよう。

この国は、残念ながら医療の質が高いとは決して言えない。
医療機器のみを見てみても、国内には1台たりともMRIすら存在しない。
そもそもそんな精密機械があったところで、電圧の不安定さですぐ壊れるだろうし、そもそも使いこなせる人がいない。
もしそれらのような高度な医療機器を使用する必要がある病気に罹った場合、もしくは怪我を負った場合、フィジー、オーストラリア、ニュージーランドなどで治療を受ける必要があるか、もしくは死ぬかしかない。
当然お金があれば、国外で治療を受けることも可能であろう。
しかし、そこで発生しうる不平等さは「経済格差」として取り扱われるべき問題である。

問題は、たとえお金があろうが無かろうが、「国内では」皆一様に低い水準の医療しか受けられないというところにある。
そして大目標に話を戻せば、キリバス政府はその状況に気が付き、その状況へNOを突き付け、その状況を改善する意志を見せている、ということだ。
上述した例だけではなく、保健公正という点から見て他にも様々な問題が、このキリバスにはあるのだろう。
本当に公正な国民の健康を実現するには、乗り越えない壁の数が多く、そして大きすぎる。
できることからやれば良いが、逆に、できることしかできないのだ。
つまりは、本当の意味で草の根からの活動となる。

草の根活動と言えば、我々青年海外協力隊の十八番である。
現に、我らがキリバス隊員のうち、医療隊員の有志が集って行っている「サンダルプロジェクト」なる企画は、開始から1年を過ぎ、試行錯誤を重ねながらもその活動は徐々に軌道に乗っている。
この企画は現地の新聞にも取り上げられたことがあるほど、意味のあるプロジェクトであると同時に、まさに草の根からの活動であるといえる。

こちらに関しては、また後日触れさせて頂こう。

さて、私にとっての「草の根」は、いったいどこにあるのだろうか。

キリバスへ来て、ようやく半年。
先進国の常識に漬かりきっていたIT技術者の迷走は続くのであった。

2016/07/18

スーパーコキオキタイム

1979年7月12日、それまで長く続いていたイギリスからの支配を逃れ、タラワ島をはじめとした33の島々を含む広大な領域が、一つの共和制国家として独立を果たした。
その国家は、対外的には「ギルバート諸島」から捩った「キリバス」という国名で呼ばれることになる。
そしてその後、この7月12日は国民にとって最も特別な日の一つとなり、その日を含む1週間を「インデペンデンスウィーク」として定め、国民の休日として1週間丸々国を挙げてのお祭りが開催されることになったのである。

ということで、半年ぶりくらいの長期休暇を頂きました。
期間としては1週間+土日=9日間と、日本でいうところのゴールデンウィークかシルバーウィークに相当する。
連日、色々な催し物やイベントが開催されたりするわけだが、目玉となる日はやはり12日火曜日。
12日は朝早くから関係各国の大使などが参列する大々的なパレードがあったりする。
そのパレードがあるタラワ島の政治の中心地「バイリキ」においては、普段は見られない出店なども数多く出店し、タレントショーや美人コンテストなんていうのも開催されるというから驚きだ。

私もこの1週間、何日かはバイリキへ向かい、色々なイベントを見たりした。
ちなみに、どこでいつどのようなイベントが開催されるかは、事前に新聞で全て告知される。
A4の紙4枚分に相当する数のイベントが開催されるわけだが、私の目当ては「スポーツイベント」だ。
この国でスポーツというと、一番はサッカーらしいのだが、正直サッカーは個人的に興味がない。
興味があったのは、この国で普及しているという「タイクァンドー」と呼ばれる格闘技だ。
このタイクァンドーであるが、元は韓国の「テコンドー」で実際には見たことはないが、恐らくテコンドーと同じような格闘技なのだろう。
このインデペンデンスウィークのどこかで、このタイクァンドーの試合があると聞いていたので、是非とも見たいと思っていた。
しかし、手に入れた新聞のなかに入っていたスケジュールのどこを見ても、タイクァンドーの記載が見当たらない。

残念、今年はタイクァンドーのイベントは開催されなかったようだ。

まあ、とはいっても、今回はもう一つ、是非とも見ておきたかったスポーツがあったのだ。

それは、ずばりバレーボール。

私が現在ボランティアとして所属している組織はMinistry of Health and Medical Serviceという省庁の、Health Information Unitと呼ばれる部署だ。
その部署の中で、私のカウンターパートに当たる女性が、なんとバレーボールをしているのだ。
聞くと、その女性の旦那さんもバレーボールの元プレイヤーだったそうだ。
この旦那さんが結構やり手で、タラワ島内にあるチームのうち、男女併せて3つのチームのコーチを務めており、海外遠征などにも行ったりすることがあるらしい。
カウンターパートが所属する女子バレーチームもそのうちの一つで、これら3つのチームが出場するバレーボールの試合が、このインデペンデンスウィークに開催されたのだ。

予選は、インデペンデンスウィーク始まってすぐの7月9日。
カウンターパートが所属するチームは順当に勝ち上がり、決勝戦へコマを進めた。
一方、旦那さんがコーチを務める男子チームはというと、最初の2セットを落とし、危機的状況から3セット連取の大逆転劇を見せ、辛くも決勝進出を決めた。

決勝戦のある7月12日は奇しくもインデペンデンスデイ。
多くのキリバス人が集まるインデペンデンスウィークの中でも最も盛り上がるこの日、バレーボールコートの周りには人だかりができていた。
そんな中行われた決勝戦。まずは女子バレーからだ。
カウンターパートは残念ながら控え。
しかし、チームは3セットを楽々先取し、あっけなく優勝を決めてしまう。
圧巻だったのは、そのレシーブ力。
不足気味の攻撃力を補って余りある防御力で終始相手を圧倒しての圧勝となった。

続く男子バレーは、接戦となった。
旦那さんが率いるチームのうち、女子チームが防御力とするならば、男子チームは攻撃力。
中でもエーススパイカーのスパイクが面白いように決まる。
しかし相手チームの攻撃力もなかなかのもので、試合は双方打ち乱れての打撃戦となった。
1セット取れば1セット取られる、これを二回繰り返し、迎えた最終セット。
わずかに、こちらのチームの地力が勝ったのか、デュースまで持ち込んでギリギリで勝利を収めることになった。

最後の最後、エーススパイカーが決めたスパイクでラストポイントが入った瞬間に沸き起こる大歓声。
控えからチームメイトがコート内に乱入、コーチであるカウンターパートの旦那さんも乱入。
コート内は、優勝を喜ぶ熱気に包まれた。

さて、男女両チームの優勝を見届けて暫くして、さて今から何をするかと思ってコートのサイドでボーっとしていたら、今回の優勝の立役者である旦那が話しかけてきてくれた。

「ようMasu(私のここでの仇名)、あんた酒飲めるか?」

「お、旦那!優勝おめでとう!俺?酒なら少しは飲めるけど」

「よし、じゃあ飲むぞ!」

「え?お、おう」

そういって、彼は私をチームメイトが集まっているところへ引っ張っていく。

「ほれ、どうぞ」

「ん、これは?」

「コキオキっていうんだ、飲んだことないか?」

「いや、名前はよく聞くけど、初めて飲むな」

「そうか、じゃあこれの飲み方を教えてやる、こう飲むんだ!」

そう言うなり、私に渡したコップとは別に自分が持っていたコップの中身を、一気にあおる旦那。

ちょ、イッキかよ!

コップの大きさはさほど大きくはないため、それほど量的には大変ではないと思われるが、アルコール度数的には大丈夫なのだろうか。

一抹の不安を覚えながらも、私も郷に従う。

「OK, I’ll go!!!」

コップの中身を一気にあおる。

途端に口に広がる酸味と、得体のしれない味。
これまで味わったどんなお酒とも違う、決して不味いというわけではないが、慣れが必要だ。

いや、慣れれば普通に美味いかもしれない、きっと。

この「コキオキ」であるが、材料はココナッツの「樹液」。
ココナッツの木に傷をつけ、括り付けておいた瓶に少しずつ抽出したものを発酵させて作る。
早い話が、日本でいう「どぶろく」、という話を聞いたことはあったが、どぶろくというものを飲んだことがない私には、経験上の比較対象がない。

「うっぷ、これ、アルコール度数何%だ?」

「すまん、気にしたことないからわからん」

そりゃそうだ。
基本的に自家製である以上、その発酵度合いも時によってまちまちになるだろうし、そもそもこの国の人たちがそんな細かいことを気にするわけがない。
要は、酔えればいいんだから。

気が付くと、私は男子バレーチームの面々が集う円陣に組み込まれていた。
10リットルはあろうかというコキオキが入った樽を囲んでバレーコートのど真ん中に陣取るチームメイトと私。
期せずして、私は祝勝会へ参加することになったのだ。
チームメイト以外の外国人は私一人。
それどころか、チームメイト以外のバレーボール関係者すら、私しかいない。
なんて名誉なことなのだろうか。
というか、私ここに居て良いのか。

円陣を順々に、コップが回っていく。コップが回ってきた人は、樽からコキオキを掬い、あおる。

「Hey Masu、Don't you forget how to drink it?」

「Year, I know how to drink it!!!」

私はそう言いながら、コップの中身を空にする。
それを繰り返すこと10数回。
歌って踊って笑って、あっという間に3時間が経過した。

最終的に、私が飲んだコキオキの量は、コップ17杯。
同じ方面へ向かうというチームメイトの車へ乗せてもらい、家へと向かう。
ちなみに私が住んでいる家の大家はこのタラワ島においてはかなりの有名人で、その大家の名前を告げただけで場所を完璧に把握してもらえた。

車に乗ったところまでは覚えているのだが、次に私の記憶に残っているのは、次の日の朝、とんでもない頭痛と体の重さを感じながら目を覚ましたことだ。
完全無欠のハングオーバーにより、水曜日を完全に寝潰してしまうというオチ付きで、私の人生で上位10番目以内には確実に入る「飲み過ぎ」の夜、スーパーコキオキタイムは幕を下ろした。

コキオキ、また飲みたいけど、原料がココナッツだから、コレステロールとか大丈夫かな・・・。