2016/08/18

戦後70余年の炎の揺らめき

2016年7月24日、青年海外協力隊のキリバス国派遣隊員のうち、有志の7名がベシオ島の東端に集まっていた。
集合場所を今一つ理解していなかった私は、同居人の青野氏と共にバスに揺られていたのだが、気が付くと集合場所を通り越してしまっていたようだ。
早めに家を出ていたという事もあって時間に余裕のあった私たちは、そのままベシオ島をバスで一周したのち、集合場所へ時間通りに到着した。
遅れて、その日の参加者たちが続々と集合場所へと集まってくる。
その面々は、ことごとく日本人だ。

「アベさん、彼らは、どうやって見つかるものなんですか?」
「ああ、こういうのはキリバス人がゴミ穴掘ろうとしたときに見っかったりすることが多いね。ほら、今あそこらへんって一帯に民家が建ってるでしょ」

ああ、なるほど、やっぱりベシオの地下から見つかるものなのか。
そう思いながら、綺麗に並べられていく骨を見下ろす。
ちなみに、アベさんというのはかれこれキリバスへ住み続けて20年以上の、キリバスの達人だ。
キリバスへ来る際は、この人を通しておけばまず間違いはない。
なお日本人。

70年の時を経て、完全に茶色く変色してしまった骨は、一見するとそれが本当に日本人の、いや、人間の骨だったのかどうかすら疑わしい。
しかし、中には頭蓋骨の頭頂部がそのまま残っているものもあり、それが確実に人体の一部を構成していたという痕跡が見て取れるものも、確かに存在した。
そこに集められた人骨は、全部で19柱。
例外なく、タラワ島の戦いによって没した旧日本帝国海軍陸戦隊の方々だ。
ベシオ島の地中から発掘され、すでに専門家による鑑定が完了している。

柱ごとに、発掘された骨の数にはかなりバラつきがあった。
かたや、片手で掬えるくらいしか残っていないものもあれば、これ以上選別ができないという理由で、3柱分まとめてランドセルがいっぱいになるくらいの分量になったものすらある。
鑑定をしたのは、わざわざこのためにやってきた法医学の権威という、大学の教授だ。
キリバスに居る青年海外協力隊員のうち、医療関係隊員の協力を得ながら、前日の7月23日には作業を全て終わらせていた。
その日に供養されたのは、この骨は確実にタラワ島の戦いで没した東洋人である、というのが確実である19柱だ。

見つかった骨は、基本的にはベシオの地下から掘り起こされたもので、柱によっては遺留品と共に発掘されることもあったそうだ。
出てきた遺留品は銃弾、軍刀の鞘、ヘルメットの一部、赤チンの容器、水筒など多岐にわたる。
ほぼ全ての遺留品は70余年という年月をまじまじと実感させてくれるほどボロボロで、例外なく錆にまみれていた。
そういった遺留品のすぐそばから見つかった骨で、日本人としての痕跡などが骨に見られれば、それが旧日本海軍の軍人であったとして特定されるのだという。
少しだけ教授直々に解説してもらったが、正直全く分からない。

ちなみに、銃弾といった危険物はキリバス警察へ引き渡されていきました。
爆発なんてしないだろうけど。

骨の中には、金の詰め物が施してある歯なんていうのも見つかったりしたらしい。
その時代で歯に金を入れるとなると、まあ相当なお金持ちである。
ひょっとしたら士官の一人だったのでは、などと思ったりもしたが、70年経った今となってはそれが誰だったのかを知る術は、何一つとして無い。
彼らはもはや、自分が誰だったかを知ってもらうこともないまま、弔われることになるのだ。

集められた19柱は、このキリバスでできうる限りの最大限をもって、丁重に火葬された。
燃やすための薪の一本ですら、ここで調達するのは容易い事ではない。
そもそも、火葬をするなどという宗教的背景すら、キリスト教が大多数を占めるキリバスには存在しない。

燃え上がる炎を前に、参加者全員で黙祷を捧げる。
もうすでに骨なので火葬は必要ないと思われるかもしれないが、そこは宗教上の理由と、特に疫学上の理由から、必ず火にくべる必要があるのだそうだ。
なにせ彼らはこの後、飛行機に乗って、日本へ帰るのだから。

頑張ってくれて、ありがとう。
先に、日本へお帰り下さい。
1年半後、私も日本へ帰ったら、皆様の元へ必ずお参りさせて頂きます。

彼らの存在は、かつてこの地において激戦が繰り広げられたという、これ以上ない明確な証拠だ。
そして、目の前で燃え盛る19柱分の骨以外にも、まだまだ大人数の骨がベシオ島の地下には眠っている。
その上には、今やベシオ港で栄えたキリバスの住人たちが住居を構え、日々暮らしている。
彼らを押しのけて発掘作業をする、などというのはもはや不可能に近い。
彼らが偶然発見してくれるか、もしくはアメリカ側の発掘団がついでに発見してくれるのを、待つしかないのだ。

ちなみに、アメリカ側も戦没者の発掘にはかなり力を入れている。
特に、どこに誰をどういった経緯で葬ったか、といった情報はかなり詳細に残っているそうで、その情報を元に基金が設けられ、発掘団が結成されるのだとか。
キリバスのみならず、世界各国にアメリカの遺骨発掘団は派遣されているそうだ。

今回キリバスにて開かれた慰霊会は、史上3度目だという。
1回目はそれこそ10年以上前で、ご遺族の方々も大勢このキリバスへいらっしゃったそうだ。
2回目は今回の2,3年前で、3回目となる今回は、たまたま私の任期中に開かれることになった。
毎年必ず開かれるというわけでなはいレアイベントに遭遇し、参加できたのはまさに幸運としか言いようがない。
死者を憩うという場でもあるので幸運というのは些か不謹慎かもしれないが、それでも私はこの巡りあわせに感謝した。

その日は、乾季にしては珍しく久しぶりに早朝に大雨が降ったにもかかわらず、会が開かれる頃には赤道直下特有の強烈な日差しが照り付けていた。
感じる肌のヒリヒリは、燃える炎の赤外線によるものだったのか、それとも降り注ぐ日差しによるものだったのか。
ただ、これだけ綺麗に晴れていれば、天に昇るには絶好の日和だったであろう。
一説によると、戦争で死んでその地に残されてろくに供養すらされなかった人は、祖国にも帰れず成仏もできずに、その地を永遠に彷徨うのだという。

戦没者全員が無事、この地への呪縛から解き放たれんことを、切に願う。

そしてこれ以上、彼らのような歴史の犠牲者が出ないことを、切に願う。

茶色く変色していた骨は、素手では触れないほどの高温により、真っ白になっていた。


以下、ベシオ島に今も残る戦跡関連の写真を載せておきます。




今回、慰霊会が行われた場所にある固定砲台。
後ろにももう一台、同じものがある。
最東端であるという事と、得られた情報を鑑みると、これらは使用されなかった可能性が高い。


 ベシオ島最西端にある固定砲台。
今は現地の子供たちの遊び場になっている。


 地下防空壕の入り口、だったと思われるもの。
今は周りに現地人が住み着いている。




防空壕跡と思われるもの。


司令塔跡地。鉄筋コンクリートで固めてあるため非常に堅牢。
現在は利用されていない。

2016/08/15

激戦タラワ環礁その5

この戦いが始まる前、守備隊の司令官、柴崎少将から貰った言葉を、日本兵たちは思い出していた。
「いいか、お前たち、バンザイ突撃なんてするなよ。お国のために死ぬことなんてない。生きて、日本へ帰るんだ」

生き残った日本兵は、全員が知っていた。
少将が死んだのは、彼が居た堅牢な司令部を戦傷者の治療のために明け渡したためであったことを。
日本海軍少将柴崎恵次は、その温厚な人柄でもって、部下たちから篤く慕われていたという。

「申し訳ありません少将。あの言葉、お受けすることができません」
日本兵は銃剣を手に、覚悟を決めた。

タラワ島の戦いが開始してから2日が経過して、依然としてアメリカ軍へ猛然と抵抗を続けるものの、一方で日本軍側は確実に損耗していた。
初めは4,700名ほど居た日本兵も、2日目終了の時点で生き残りは1,000名を切り、さらに東西へ分断されている。
3日目からはさらに大量のアメリカ軍の増援が来ることが予想されており、これから後に続くのは、抵抗すればただの殺戮だ。
もし降伏すれば、捕虜として命だけは確実に助かる。

しかし、日本兵の脳裏によぎったのは、戦争に負けた国の末路であった。
戦争に負ければ、敗戦国は例外なく戦勝国の占領下におかれ、植民地への道を免れない。
国に残してきた妻や子供、家族たちが全てを奪われていく。
もし生きながらえたとしても、そんな未来は決して受け入れられるものではない。

俺たちは、国のために死ぬんじゃない。
守るべき、家族のために死ぬんだ。

降伏、という二文字は、彼らの頭の中には存在しなかった。

11月23日朝、アメリカ軍は最後の一個大隊を援軍として、Green Beachから投入する。
予定されていた上陸兵の全てを投入したアメリカ軍は、しかし未だに日本軍からの抵抗を受けていた。
Red Beach 1などに残っていた日本兵も徐々に押され、海岸から後退しながら抵抗を続けたが、下がったとしてももはや東西南北をアメリカ兵に囲まれ、逃げ場はどこにもない。
死ぬか捕まるかの2択を迫られることになった彼らの中には、自害する者も居たという。

逆に、西側から分断され東側へ退くことになった日本兵は、東へ移動しながら目を疑った。
ベシオ島の東、バイリキ島を占拠するアメリカ軍の姿が見えたからだ。
もはや、東にも逃げ場はない。
飛行場の東端付近に集結した東側日本軍は、最期の時を迎えようとしていた。

時間が経つにつれ、死傷者は比例するように増えていく。
これ以上引き延ばしても、きっともう日本海軍の増援艦隊は間に合わない。
23日の夜までに生き残った東側約110名は、とうとうバンザイ突撃に踏み切る。
突撃は3回に分けて行われ、1回目2,30名、2回目2,30名、3回目50名という内訳にて実施。
弾薬や手榴弾など、もう残ってはいない。
空の銃剣を手に、アメリカ軍へ向けて走る。
放たれるアメリカ軍からの機銃掃射。
なすすべもなく倒れる日本兵たち。
同じ頃、西側で生き残った日本兵50名も、東側と同じようにバンザイ突撃を敢行した。
銃弾を持たぬ突撃に意味などなく、ほとんどアメリカ軍へダメージを与えることができず、最期の特攻は終了する。

こうして、たった3日間で日米合わせて5,700名を超える死者を出したタラワ島の戦いは、幕を閉じたのである。

たった3日で終わってしまった戦闘ではあるが、しかしそれでも、両国が被った損害は甚大なものであった。
日本側は4,700名のうち、生き残って捕虜となった日本人はわずか17名で、全員が意識不明の状態で搬送された。
それ以外の140名ほどは朝鮮人労働者であった。

アメリカ軍は、戦死した日本人兵に敬意を表し、彼らを丁重に葬ることにする。
ベシオ島の滑走路の端っこに穴を掘り、日本兵を埋葬していく。
アメリカ人なりのやり方ではあるが、日本兵たちはこの地にて弔われることになった。

アメリカ側においても戦死者は1,000人を上回り、太平洋戦争始まってから白兵戦においては最も悲惨な被害を出した地の一つとして、1945年に一つのドキュメンタリー映画が作成された。
その映画の名前は「With the marines at Tarawa」。
凄惨を極める内容のその映画は、その年のアカデミー賞の短編ドキュメンタリー賞を受賞する。
そのあまりの内容の壮絶さに、志願兵の数が一時的に減少したとさえ言われている。

「タラワ」という名前は、アメリカに強烈に記憶されることになった。

そしてこのタラワでの大苦戦は、アメリカ海軍において水陸両用作戦の改良をするきっかけとなったという。

2016/08/12

激戦タラワ環礁その4

アメリカ軍艦隊指揮官レイモンド・スプルーアンス中将は焦っていた。

タラワ島攻略にかけられる時間は、長く見積もって3日。
それ以上引き延ばせば、確実に日本海軍の増援艦隊がやってくる。

現に、戦闘初日である11月21日にミクロネシアのポンペイ島にいた陸軍甲支隊が、タラワ島襲撃の知らせを受けて邀撃部隊を編成し、出撃している。

その編成は

・輸送艦隊
軽巡3隻(那珂、五十鈴、長良)
駆逐艦2隻(雷、響)
輸送船2隻

・護衛艦隊
重巡4隻(鳥海、鈴谷、熊野、筑摩)
軽巡1隻(能代)
駆逐艦5隻(早波、藤波、初月、野分、舞風)


という、そうそうたるメンツだ。
これらともし会敵し戦闘をするとなれば、アメリカ軍側としても確実にただでは済まない。
可能な限り速やかに適地を奪取し、ベシオ島の自軍拠点化を進める必要があった。
初日の無茶な行軍は、その焦りが原因の一端であることは疑いようもないだろう。
結果として疲弊、摩耗し尽くしてしまったアメリカ軍海兵隊たちは、占領した拠点の砂浜に物資もなおざりに放置した状態で、皆砂浜に眠りこけてしまっていた。

そんなアメリカ軍とは対照的に、日本軍の兵士たちはあくまで狡猾だった。
狡猾であり、悪魔的であり、大胆不敵であった。

1943年11月22日、タラワ島の戦いが開始して二日目、日付が変わるか変わらないかくらいの、未だ宵闇が海を覆いつくしている時間、日本兵は密かに、しかし大胆に行動を開始する。
敵の情報が少なかったためか、電話回線が切られ司令塔も失っていたためかはわからないが、そこで実行されようとしていたのは、アメリカ軍への夜襲ではない。
その実、もっと効果的で、アメリカ軍にとっては悪夢のような作戦である。


日本兵は、まずRed Beachの海岸付近に打ち捨てられていた水陸両用トラクターに目を付けた。
打ち捨てられたトラクターは1日目の揚陸作戦において、アメリカ軍側の海兵隊が使用したものである。
車体のいたるところに日本兵が放った機銃の銃痕や、大砲による損傷が見受けられる。
しかしその中でもまだまともに動きそうなものに目を付け、あろうことかアメリカ軍の目を盗み、そのトラクターを奪取したのである。
もはや陸は走れないとしても、まだ海上は進める。
日本兵の目論見は、見事に当たった。

日本兵が向かった先は、浜辺から600mほど離れたところで座礁していた、輸送船「斉田丸」。
日本軍がタラワ島へ来る際、様々な物資を運び続けてきた船である。
トラクターに荷物を載せて斉田丸へ到着した日本兵は、あくまで静かに、作戦を続けた。
もし動きがバレれば、敵はすぐそこにいる。
古くは、現在のベシオ港には日本軍が使用していた波止場が存在していた。
その波止場を使用して、輸送船からの物資を陸へ運び入れていたと思われる。

結果として、アメリカ軍側には全く察知されることなく、斉田丸への配置が済んだ日本兵たちは、はやる気持ちを抑え、日の出を今か今かと待ち続けた。

午前6時、日が上ってすぐ、アメリカ軍が行動を開始する。
既に上陸を済ませている海兵隊への増援のため、揚陸部隊が前日と同じようにRed Beach側から進軍を開始した。
沖から海岸まで数百mはあろうかという浅瀬を、やはり前日のようにゆっくりと行進していく。

陸からは、前日と同じように攻撃が加えられるが、1日目ほどの激しさはない。
これは、いける!アメリカ軍海兵隊は勢いづいた。

言ったそばからまた油断。
馬鹿は死ななきゃ治らない。

斉田丸から、無数の機銃の砲身が突如として姿を現した。

行進を続けるアメリカ軍兵に、斜め後ろから雨のような機銃掃射が降りそそぐ。

予想を遥かに上回る日本兵の行動に、アメリカ軍は驚愕した。
当然、機銃掃射自体は恐ろしい。
それ自体が、すでにアメリカ軍に与える損害はとてつもないものになっている。

しかし、より恐ろしいのは、その覚悟だ。

斉田丸という、座礁して既に活動を停止した、海のど真ん中の標的とも言える建造物から攻撃をすれば、逆に敵の攻撃の的になってしまうことは必然の理。
その、攻撃の的になってしまうという恐怖を乗り越え、彼らは今、あそこから機銃掃射を続けている。

死を覚悟した特攻。

古今東西、どの戦においても、どんな敵が一番恐ろしいかと聞かれた場合、こう答える人が多いと思う。
「死を恐れない敵」

日本兵のほぼ全てが鬼人、修羅であるかのように、アメリカ軍の目には映ったはずである。
やらねば、やられる。
もはやアメリカ軍側に、手心を加えるなどという生易しい余裕は消え失せてしまっていた。

斉田丸から浴びせられる銃弾は後を絶たない。
結局アメリカ軍は増援部隊の上陸をいったん諦め、斉田丸をどうにかして沈黙させることにした。
しかし、艦隊のどの艦も、19日から行っている砲艦射撃により、残弾がほとんど残っていない状況である。

仕方なく、アメリカ軍は艦載機による攻撃を仕掛けるため、空母からF6F戦闘機を4機出撃させ、斉田丸へ機銃掃射を試みた。
当たり所が悪かったためか、残念ながら日本兵のほとんどがその機銃掃射を逃れ、船の上で変わらず機銃を打ち続ける。

次にやってきたF6F戦闘機は3機で、3機とも小型の爆弾を抱えていた。
次々に斉田丸へ投下される爆弾。
しかし、3発の爆弾のうち、2発が至近弾に終わり、直撃弾となった1発も、残念ながら機銃設置場所から離れた箇所への着弾となり、決定的なダメージとはならなかった。

最終的に12機のF6F戦闘機が爆弾を抱えて空母から出撃する。

次々に投下される爆弾。

しかし、斉田丸へは、有効な打撃を与えることができずに終わってしまう。
その間も、変わらず続けられる、斉田丸からの機銃攻撃。

しぶとい、あまりにもしぶとすぎる。

もういいだろう、なんでそこまで頑張るんだ?!

何が、そこまでお前らを戦いに駆り立てるというのだ?!

ここに来てようやく、アメリカ軍は艦載機による攻撃で斉田丸を沈黙させることを諦める。
そして代わりとして、海兵隊屈指の工作員にその命運が託された。

作戦はこうだ。

斉田丸に乗った日本兵に気付かれることなく、斉田丸へ接近する。
当時最新型の高性能爆薬を仕掛ける。
斉田丸を離れる。
爆破する。

あまりにも単純だが、もはや他に手が残されていないアメリカ軍は、すぐにその作戦を実行へと移した。
今この瞬間にも、浅瀬では海兵隊が機銃攻撃を受け続けている。
先に上陸した部隊も、日本軍との交戦で摩耗してきているだろう。
残された時間もそんなに多くはない。

海兵隊工作員は、高性能爆薬を手に輸送船を出発した。
見つかれば、自身の体に風穴が空く。
機銃掃射が続けられている方角とは逆方向から、斉田丸へとゆっくり近づく工作員。
潜ってさえいれば、気付かれることはまずないはずだ。
だがしかし、絶対に見つかってはならないという危機感が、より一層の緊迫感をもたらしていた。

敵に決定的なダメージを与えるためには、敵がより多くいる箇所で爆発させなければ効果がない。
なんとか斉田丸へたどり着くことができた工作員は、しかしまだ安心はできないでいた。
これから自分は船をぐるりと半周し、敵が近くにいる箇所にまで接近して爆弾を取り付け、その後また船を半周して戻り、その爆弾を点火しなければならないのだ。

これ以上ない緊張感の元、船の陰に隠れて少しずつ移動を開始する。
頭の上では、今でも機銃を打ち続ける音が聞こえてくる。
今すぐにでもそれを止めに行きたくなる気持ちを抑え、船の外壁に爆薬を取り付けた工作員は、速やかに、しかし誰にも感づかれることなく、もと来た道を引き返していった。
その帰り道には、爆薬へ続く導火線が続いている。

その頃、斉田丸の甲板で機銃を打ち鳴らし続けていた日本兵は喜びに打ち震えていた。
作戦が見事に決まり、鬼畜米兵どもが慌てふためく様が楽しくてしょうがなかったのだ。
一発撃つごとに沈んでいく敵の体。
敵の艦載機の攻撃だって上手いことやり過ごせた。
戦争特有の、一種の病気ともとれる脳内麻薬の過剰分泌に、もはや日本兵は自分の体の制御すらままならない。
思うがままに、機銃を撃ちまくる。

しかし、機銃を気持ちよく撃っていたところに、突如として強烈な光が襲う。
一瞬にして五体を粉々に吹き飛ばされた日本兵たちは、その光が足元から来たという事すら認識することなく四散する。
アメリカ軍の、決死の工作員による斉田丸沈黙作戦は、秘密裏に成功したのである。

しかし作戦が成功し、日本兵が沈黙してなお、斉田丸は海から姿を消すことなく、そこに佇んでいたという。

斉田丸が沈黙した後は、今度こそ障害となるものが何もないことを確認し、Green Beachから進軍を開始する。
ようやくベシオ島西海岸へ上陸することができたアメリカ軍の1個大隊は、島の中央付近に居る日本兵との戦闘を避けるため、海岸を南へと進軍した、
同時に、ベシオ島北部(Red Beach)から上陸していたアメリカ軍海兵隊は、日本軍と交戦しながらも、南下することで日本軍のど真ん中を突っ切る形をとる。
結果として、日本軍は大きく損耗しながら、東西へとその戦力を分断されてしまうことになったのである。

日本軍からの無線連絡は、一瞬だけ通信が回復した22日午前に発信された「○○桟橋に通じる南北線付近で彼我対戦中」を最後に、通信が完全に途絶してしまっていた。


その5へ続く

2016/08/10

激戦タラワ環礁その3

1943年11月21日未明、まだ宵闇が海を覆いつくしている時間に、ベシオ島の西から北西にかけて待機していたアメリカ軍の輸送艦が、にわかに動き始めた。
アメリカ軍海兵隊による揚陸作戦の開始である。
19日から実施されていた戦艦からの訪韓射撃や艦載機による爆撃などにより、それなりのダメージを負ったと思われた日本軍に対し、アメリカ軍側の損害は今のところほぼゼロ。
一見焦土のように見えたベシオ島に、もはや生存者などいないのではないかと、半ば楽観視しながらの揚陸開始だった。


ベシオ島への上陸作戦は大きく3つに分かれており、それぞれ色で区分けされていた。

まず初めに揚陸を試みたのは上陸第1波である125輛のLVT(水陸両用トラクター)で、ベシオ島の西海岸にある水路からの侵入である(Green Beach)。
輸送船から続々と排出されるトラクター。
水陸両用なので、サンゴ礁のような浅瀬が多い地形にはもってこいの兵器である。
徐々に白み始める空。
ここに来て、ようやく日本軍の反撃が開始する。

耐えに耐えた2日間。

実を言うと、各トーチカの防御能力も、限界に来ていた。

来てくれて、ありがとう。

そして、さようなら。

トーチカの攻撃口が一斉に開き、海岸砲が突如出現した。

一斉に火を噴く、ベシオ島西海岸の砲台。
ほぼ動かない的に近いトラクターは、砲撃の格好の餌食となり、かなりの数のトラクターが沈められることになる。
結局、この時点での水陸両用トラクターによる上陸は叶わず、残ったトラクターは一時撤退を余儀なくされる。

しかし、ここで黙って見ているわけがないのが、同じく西海岸にいた、戦艦メリーランド。

照準器を除く主砲の射撃手の口角がニヤリと上がる。
前日までの砲撃と違うところ、それは、攻撃目標であるトーチカの「攻撃口」が開いているという事である。
Hey Jap、その間抜けな口に鉛玉ぶち込んでやるぜ!

FIREのかけ声と共に響く主砲の爆音。
砲塔から飛び出す、軽自動車を軽く上回る重さの砲弾。
その砲弾は、音速を超える速度で口が開いたトーチカへ直撃した場合、一撃でその機能を全て奪い去る。

各個撃破されていくトーチカ。

そして、メリーランドが放った砲弾の一つが、日本軍の保有する弾薬庫に着弾した。
その瞬間にまきおこる、島を揺り動かすほどの大爆発。

結果として、西海岸はメリーランド一隻のみの活躍により無効化・制圧されてしまう。


同時刻、海兵隊による上陸部隊がベシオ島北部から駆逐艦二隻を伴い、上陸を開始していた。


北部からの上陸部隊は、3拠点の同時制圧のため三つに分けられ、さらにそれらが前衛部隊、後衛部隊に分けられている。
このうち前衛3部隊は水陸両用トラクターに乗った海兵隊によって構成され、そのあとに戦車や野砲などを積んだ上陸用舟艇が続いた。
まずは三分間隔でトラクターが続々と出撃する。
北から進攻した上陸部隊にとって幸運だったのは、北側に配置された海岸砲が、西海岸よりも少なかったことである。
上陸部隊に同行した駆逐艦二隻による援護射撃もある程度の効果があったものとも思われる。
それにより、多数のトラクターが直撃弾を受けて沈んでいく一方で、機銃によるダメージのみで済んだトラクターも数多くあった。
結果として生き残ったトラクターは密集隊形を取りながら進むことで難を逃れ、3つの前衛部隊がそれぞれ海岸への到着に成功する。
しかし、それでも各トラクターが受けたダメージは相当のもので、全トラクターはその時点で破棄されることとなった。

前衛部隊が海岸に到着するのを待たずして、後衛部隊が輸送船を出撃する。
目指すは、前衛部隊が確保してくれているであろう海岸それぞれ3拠点、である。
物資を積んだ上陸用舟艇が海岸へ向けて進んでいく。
しかし、海岸から数百メートルも残っている箇所で、なぜか船底が海底に着床してしまい、それ以上先へ進めない。

珊瑚礁による、天然のトラップ発動である。
Red Beach 3からの景色。非常に遠浅なのが見て取れる。

珊瑚礁で形成されているタラワ島は、海岸からかなり遠くまでが遠浅の海となっている。
潮の満ち引きで波打ち際が百メートル以上前後する箇所も、普通に存在する。
水深が1.2m以上なければ先へ進めない上陸用舟艇は、そういう意味では珊瑚礁海域においては極めて不利な船であると言わざるを得ない。

仕方なく、海岸まで残り数百メートルの地点から、徒歩による進軍を行うことになった海兵隊。
当然、海中を歩く人間の速度などたかが知れている。
更に、アメリカ海兵隊は、それぞれ全重量2,30㎏にも及ぶ装備品を抱えての行軍であった。
付け加えて、海岸へ続く遠浅の海は珊瑚礁という自然が作り出したものである。
当然、完全なまっ平というわけではない。
ところどころ浅くなったり、逆に深くなっていたりする箇所がある。
そして、その深みに足を踏み入れてしまった海兵隊はその装備の重量により沈み、溺れてしまう者すらいたという。
当然、陸からの機銃掃射にもさらされ、ここでアメリカ軍は多数の死傷者を出してしまう。

日が完全に上りきった午前6時すぎ、北部上陸部隊の苦戦を感じた上陸作戦の指揮官は、艦隊への援護射撃と航空支援を要請する。
その要請をうけ、ベシオ島の西海岸沖からベシオ島へ向け、メリーランド、コロラドを含む戦艦3隻と、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻による一斉射撃が、ベシオ島へ降り注いだ。
先に上陸した前衛部隊からの、無線電話による詳細な偵察情報付きの砲撃は、より正確に日本軍の拠点の急所をとらえ、確実に戦力を削いでいった。

徐々に増えていく日本側の負傷兵。
そこで日本側のトップであった柴崎恵次少将は、鉄筋コンクリートで作られて堅牢であった司令部を負傷者救命用の治療所として提供し、自らを含む作戦司令部の面々をベシオ島南部の防空壕へと移すことにした。
ベシオ島西部からの砲艦射撃が開始して約6時間後の12時、防空壕へ移動した直後に戦艦からの砲弾が、まさにその防空壕へと直撃し、司令部が壊滅。
柴崎少将を含む参謀、司令部員の全てがその時点で戦死してしまう。

大将、討ち死に。

この、日本軍にとっては致命的であるダメージの司令塔の喪失は、しかしそれと同じくらい大きなまた別のダメージにより、日本軍全体への情報伝達を遅らせてしまうことになる。
それが、電話連絡回線の切断である。
島を一周するような形で形成された回線は、いたるところで分断されてしまい、各トーチカや防空壕、司令部などの間での連絡手段が、1日目にして喪失してしまった。
各トーチカを結ぶ地下通路があるにせよ、その後、日本軍の各戦略拠点は、それぞれ個別に動かざるを得なくなってしまった。
言い換えれば、部隊同士連携しての戦術的な戦闘ができなくなった、という事を意味する。

こうして、日本軍の頭脳と神経を同時に奪い去ることに成功した砲艦射撃であるが、しかしそれでも、日本軍の士気は未だ健在であった。

持ちうる砲弾を打ち尽くし、徐々に止む砲艦射撃。
全部隊の上陸が完了した海兵隊。
しかし、輸送船を出発した5000名のうち約3分の1が死傷し、戦闘不能になってしまっていた。

双方ともに甚大なダメージを被った戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、この長い1日はまだ終わらない。

次に待っているのは、海兵隊と日本兵との、陸上における白兵戦である。

可能な限り、拠点を広げておきたいアメリカ海兵隊。
これに対して自己の拠点だけは絶対に死守したい、日本海軍陸戦隊の各個拠点兵たちはトーチカに籠り、断固として抵抗を続ける。

アメリカ海兵隊は、ここで一つの戦法を用いる。
それが「溶接バーナーとコルク栓抜」戦法である。
簡単な話、火炎放射器と爆薬を用いて各トーチカを一つずつ虱潰しに壊していくというものだ。

まずは火炎放射器をトーチカへ放射。
人が居なくなったことを確認した後、爆薬でトーチカを内部から破壊。
手榴弾で内部から爆破することで、同時に地下通路も潰せるというおまけ付きである。

こうして、アメリカ軍はこの日が暮れるまでに、レッドビーチ1の西半分の縦深140mとレッドビーチ2,3の境界の桟橋を中心とした幅460m、縦深260mにわたって確保することに成功したのである。

1日目終了時点での、ベシオ島北部の勢力図概略

その4へ続く

2016/08/02

激戦タラワ環礁その2

ソロモン諸島において辛くも勝利したアメリカ軍は、その後も攻勢を継続する。
特に中太平洋海域付近においては、当時最新鋭の航空母艦であったエセックス級航空母艦エセックス、ヨークタウン、インディペンデンスなどによる艦載機爆撃が頻繁に行われた。
被害にあったのはウェーク島、ギルバート諸島、マーシャル諸島などであるが、特に日本へ衝撃を与えたのは、南鳥島への空襲であった。


1943年9月1日、南鳥島が空襲にあい、島内施設の70%が破壊されるという壊滅的打撃を受けている。
これまで最前線であったマーシャル・ギルバート諸島近海から大きく西に侵入を許してしまうことになったこの空襲は、日本にある種の危機感を抱かせるに十分なものであったであろう。

この時、日本軍においては海軍と陸軍の間で、今後の戦局に関する意見に大きな隔たりが発生していた。
陸軍の主張は「敵と距離を置くことで、後方の守りを固める」ことであり、要は前線の後退である。
これに対する海軍の主張は、「前線の後退は戦勝の機会を自ら放棄することであり、前方をまず強化すべき」だった。

前線で何とか戦果を上げたかった日本海軍は、アメリカ海軍とのマーシャル諸島沖での艦隊決戦に拘り、その後「Z作戦」と称されるマーシャル諸島沖への出撃を2度にわたり実施する。
戦艦大和、長門、航空母艦瑞鶴、翔鶴、瑞鳳をはじめとした大規模な基地航空部隊、機動部隊が前線基地トラック島やラバウル基地から出撃するが、いずれの出撃も敵軍との会敵は叶わず、全て空振りに終わってしまう。
この2度にわたる出撃による重油燃料の消費により、トラック島においては大規模な艦隊行動が困難となってしまった。
この空振りによる損失は甚大なもので、ギルバート諸島・マーシャル諸島においてはその後、海軍の機動部隊による援護なしの陸上防衛を余儀なくされることになるのである。

海上機動部隊による援護なしの陸上防衛というのが一体何を意味するのか?

それは海上から陸上への、戦艦の艦砲射撃や空母による爆撃を止める手立てがない、という事である。
これらの艦隊がそもそも島に着く前に海上にて会敵し、撃退ができないまでも戦力をそぐことができたのであれば、その後の戦局もまた変わっただろう。


1943年11月10日、満を持して、ハワイの真珠湾からギルバート諸島攻略艦隊が出撃する。

その内訳は、陸上揚陸作戦を実働するリッチモンド・ターナー少将率いる第54任務部隊と、揚陸作戦を支援するポウノール少将率いる第50任務部隊であり、それらを旗艦、重巡洋艦インディアナポリスに乗っていたレイモンド・スプルーアンス中将が率いていた。
ポウノール少将率いる第50任務部隊は空母11隻からなる大艦隊で、タラワ島上陸の2日前である11月19日に日本海軍の航空隊と戦闘を開始する。
日本側の150機という戦力に対し、アメリカ側の航空機の数は660機。
圧倒的な数の差をもって、日本からすれば敗北を喫することになった航空戦は、タラワ・マキンの戦いとは別に「ギルバート諸島沖航空戦」と呼ばれ、以降4回にわたって戦闘を繰り広げることになる。

ギルバート諸島沖航空戦が開始したのと時を同じくして、ターナー少将率いる第54任務部隊がタラワ・マキン島へと攻撃を開始する。
真珠湾から出発し、北側から回り込む形でタラワ環礁、ベシオ島の西側へと難なく進攻を進めた第54任務部隊は、到着するや否や、戦艦からの艦砲射撃を開始した。
実際に砲撃を行ったのはコロラド級戦艦コロラドと、同級戦艦メリーランド。
いずれも主砲として40.6cm連装砲を4基(計8門)も備える超弩級戦艦で、日本の戦艦長門、陸奥と並ぶ「世界7大戦艦(ビッグセブン)」のうちの二つでもある。
重量1,016kgの砲弾が31km先の標的まで届く主砲はベシオ島のみならず、タラワ環礁全域が的になるほどの射程を持つ。
砲撃と同時に、第50任務部隊からの航空支援爆撃も実施され、ベシオ島は戦艦からの砲撃と、爆撃機からの爆撃に同時にさらされることになる。

3日に渡って繰り返し行われたベシオ島への艦砲射撃及び爆撃であるが、この時点での人的被害はほとんどなかったという。
理由は、要塞として建設したトーチカの堅牢さにあった。
本来トーチカとは鉄筋コンクリートで作成した防御陣地をいうが、ここタラワ島にはそのような物資はなかったため、骨組みとしてヤシの木、コンクリートの代わりに岩や砂を使用した。
半地下型で作成されることになったこのトーチカは、どんな爆撃や砲撃もヤシの木の弾力と砂により、衝撃を吸収されてしまう。
そんなトーチカはベシオ島の海岸を埋め尽くすように建設され、全てが地下通路で連絡されていた。
さらに、全ての隣り合うトーチカ同士が機銃による十字砲火を行えるという死角のなさであった。

しかし、事前に航空写真や潜水艦からの写真により、アメリカ軍は各トーチカの正確な場所を把握していた。
そんなアメリカ側の戦艦からしてみれば、動かない的に砲撃を当てるだけの簡単なお仕事だったはずである。

砲撃と爆撃を繰り返して3日間、ベシオ島は一見すると焦土と化した。

爆撃になぎ倒され、炭と化したヤシの木。

砲撃によってえぐり取られた砂浜。


































しかし、彼らは生きていた!















その3へ続く

2016/07/30

激戦タラワ環礁その1

昭和天皇による直々の敗戦宣言により太平洋戦争が終了して間もなくの1945年12月8日、アメリカにて、とある航空母艦が就役する。

その名を、エセックス級航空母艦タラワという。

就役後、この空母は大西洋や朝鮮半島など世界を転々とさせられた挙句、結局まともな実戦を一つも経ることなく、ほとんど原形のままスクラップにされたのが、1967年の事である。
その後、世界初となるウェルドック搭載型強襲揚陸艦へその名が引き継がれ、1976年から2009年までの33年間、タラワ級強襲揚陸艦一番艦タラワは、主に人的支援任務などにおいて幅広く活躍することになる。

ここに出てくる「タラワ」という名前の二隻の艦は、皆さんご存知の通り、現キリバス共和国の首都タラワから来ている。
なぜ、アメリカからしてみれば縁もゆかりもなさそうな、こんな小さな島の名前が軍艦にまで用いられているのだろうか?
その秘密を知るためには、太平洋戦争における、アメリカ海兵隊を震撼させた「タラワの恐怖」を紐解かなければならない。

1941年12月8日に太平洋戦争(当時は大東亜戦争)が開戦すると、その後間もない1941年12月10日に、それまでイギリス統治下にあったタラワ環礁を含むギルバート諸島を、ほぼ無抵抗のまま日本の海軍陸戦隊は占領に成功する。
ギルバート諸島の他にも、近太平洋の各諸島が占領の矛先となっており、1942年までにフィリピン、インドネシア、パプアニューギニアなどを含む、アジアから太平洋にかけての広範囲に渡ってが日本の占領下に堕ちることになった。

その後、中太平洋海域における主な戦場はマーシャル・ギルバート諸島以外の海域となり、
1942年5月にミッドウェー海戦において大敗を喫した後は、主戦場はソロモン諸島へと移る。
重要性が低いと思われていたギルバート諸島においては駐在兵すら置かれることも珍しく、唯一陸戦隊が数十名駐在していたのがタラワ島北部、ギルバート諸島最北の島マキン島であった。


事態が動き始めたのは、ミッドウェー海戦から三ヶ月経過後の1942年8月17日。
アメリカ軍がマキン島へ駐在する日本海軍陸戦隊へ奇襲作戦を開始したのである。
潜水艦にて上陸したアメリカ海兵隊221名は、17日の午前2時に潜水艦ノーチラスから上陸、奇襲を仕掛け、日本海軍71名、軍属2名のうち46名を戦死・行方不明とした後、同日16時までに撤収を開始している。

この作戦のアメリカ軍側の狙いは、当時激化していたソロモン諸島における戦いから、日本軍の意識をそらすためであった。
ソロモン諸島の戦いへのマキン島へのアメリカ軍奇襲が与えた影響がどれほどのものかはわからないが、残念ながらマキン島奇襲は、中部太平洋海域の戦略的な重要性を日本軍へ知らしめることになったのである。
この奇襲事件を受けたのち、日本海軍はギルバート諸島のうちマキン島、タラワ島、アベママ島への戦力増強を開始する。
タラワ環礁最西端のベシオ島へは特に入念な武装化が行われ、島はほぼ要塞と化した。
タラワ環礁に存在する島々を総合して「タラワ島」という。この島々のうち、最西端に位置するのが、タラワの戦いにおける最激戦地となったベシオ島である。ベティオ島と表記されているが、正しくは「ベシオ」と発音する。

1943年7月にギルバートの防衛指揮官としてベシオ島へ着任した第3特別根拠地隊司令官柴崎恵次少将は、島の防御施設を視察して「たとえ、100万の敵をもってしても、この島をぬくことは不可能であろう」と豪語したと言われている。


その頃、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナル島への進攻を開始していた。


ソロモン諸島の戦いは、ミッドウェー海戦と並んで日本人にはなじみの深い戦局であるが、日米含めて数多くの軍艦が沈んでいることから、ガダルカナル島の北部海域は今も「アイアンボトムサウンド」という名称で有名でもある。

このガダルカナル島を含めた、ソロモン諸島を航空基地として確保するための作戦は「ウォッチタワー作戦」と呼ばれ、これまで防戦一方であったアメリカ軍からの、太平洋戦争において初の、対日反攻作戦となった。
同作戦は日本軍の飛行場基地があるガダルカナル島への進軍(1942年7月6日)にて本作戦における最大の激戦を迎えるが、それも1942年12月31日のガダルカナル島からの撤退命令により、日本軍側の敗北が決定する。

その後、ソロモン諸島における戦いは日本にとっては消耗戦の一途を辿り、アメリカ軍側はその後、どのように進行するかで議論が分かれることになる。

ご存じ、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが提唱したのは、このままソロモン諸島から西へ進み、パプアニューギニアを経てラバウルを攻略し、フィリピンへと歩みを進めるための足掛かりとする「カートホイール作戦」。
これに対し、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツが提唱したのは、一旦マーシャル・ギルバート諸島を制圧して中部太平洋海域の制空権を確保した後、日本本土へ進攻を進めるべきであるとする「ガルヴァニック作戦」。

双方譲らぬ議論は最終的にアメリカ統合参謀本部に決定が委ねられ、当時の合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトにより、「双方同時に推し進める」という決定が下される。


ミッドウェー海戦の作戦立案をしていたチェスター・ニミッツにより進められることになったギルバート諸島攻略であるが、その攻撃の最初の矛先となったのは、ソロモン諸島から最も近い日本海軍の駐在地であるギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママの3環礁であった。


その2へ続く。

2016/07/20

公正と平等

ここ暫くエントリーに期間が開いたのには、まあいくつか理由がある。
一つは英語の学習に関連している。
もう一つは、単純にブログへのモチベーションの問題だ。

私がこの国に来た理由の一つに「英語の習得」がある。
もちろんそれだけが理由ではないが、それ「も」理由の一つである。
であるならば、日本語に触れるような機会は可能な限り減らすべきである、という考えに至ったのだ。
初めは迷った。
ブログに書きたいことは山ほどある。
書こうと思えばいくらだって書ける。
しかし、例えば週1でエントリーをしようとすると、少なくとも1週間に1回は日本語で文章を考える時間が生まれてしまう。
しかも、一つエントリーを書こうとすると、どうしたって数時間は必要になるのだ。
そうすることで、英語に触れ続けた期間がリセットされてしまうのではないかと思った。

さて、そんなこんなで初めてみたノーブログ生活であるが、結局たどり着いた結論は、私は「日本が好き」で「日本語が好き」であるという事だ。
昔から国語は大の苦手教科で、小中高を通して国語の成績は「3」を超えたことがない。
私の両親はお願いだから私の過去の通信簿を引っ張り出すようなことはしないでくださいお願いしますなんでもしますから。

いや、してもいいけどさ・・・。

まあそんな私が、よくもこんなセリフをぬけぬけとぬかせるようになったものである。
やろうと思えば日本語を完全にシャットアウトすることだってできたはずの私は、気が付けば日本語を使ってしまっている。
ただそんな私でも、本当に徐々にではあるが、英語は上達してきてはいるようだった。
これまであまり円滑でなかった意思疎通が、円滑でないなりに少しヤスリがかけられ、表面の凸凹が少なくなってきたように感じる。

だから、なんというか、もう我慢しない、そう思うに至ったのだ。
英語の勉強は、もちろんする。
でも、日本語だって使う。
それで良いじゃないか。

ようやく半年、まだ半年。
これからあと1年半あるのだが、果たしてどれだけ英語は上達するか・・・。
未だにオーストラリア人同士がペチャクチャ喋っているのは全く聞き取れません。


さて話は変わるが、我々青年海外協力隊員にとって、赴任してから半年というのは一つの節目となる。
この時期に、それから後の1年半の活動計画の策定と提出を求められるのだ。
ちなみに、青年海外協力隊員には、義務として5回の報告書提出が求められている。
1回目は任国に到着してから3か月。
そして2回目が、任国に到着してから半年だ。
この報告書であるが、書く内容はそれぞれの回ごとにざっくりと決められており、今後の活動を左右することにもなる第2回報告書へは、前述した「今後の活動計画」なるものの記載を求められる。
要は、「残りの1年半なにすんの?」という事だ。


私は、このキリバスに着任してすぐ思ったのは、「あれ、まあ割と普通にシステム動いてんじゃん」ということだった。
当然それは偉大なる前任者達の功績なのであるが、「正直やることがない」とすら思った。
それでも、システムの内部を紐解くにつれて、次第に露わになっていく綻び。
それとは別に、ポロポロと上がってくる改善要望。
そんなこんなもあって、この半年で修正したプログラムの数は、ファイル数だけで120を超えた。
今後もこのペースで改修作業を続ければ、かなりの作業量となるはずである。
しかしそんなことは問題ではない。
私は本来、ここにただの作業員として来ているわけではないからだ。

本当ならば私の技術を伝えるべき現地技術者が別におり、その人へ指導をするのが私の最大の使命だったはずなのだ。
ところがフタを開けてみれば、最低限の技術を持つ人員すらチームにはおらず、新たにそのような人員がチームにアサインされる気配すらないときたものだ。
よくある事とはいえ、結果として私も作業員として活動しないわけにはいかなくなってしまった。
まあ、作業員としての活動は要請にもあったし、別に良いんだけどね。

さて、そんな今の私の状況であるが、今後の活動方針を考えるうえでポイントとなるのは、やはり「現地人が何を目標として動いているか」である。
現地人の現地人による現地人のための青年海外協力隊の活動である以上、現地人が目標を持っていればそれを無視して活動計画を立てるのは、もはや独りよがりの戯言に過ぎない。
運よく、私の勤める省「Ministry of Health and Medical Service(保健医療サービス省)」には、「Health Strategic Plan」なるものが存在しており、省をあげて国民の健康改善に取り組んでいる。

今回は、その計画の大目標を見てみることにする。

2012年から継続して実施されているこの健康戦略プランであるが、2015年までを区切りとして2016年から新たな計画がスタートしている。
と言っても、内容はそれまでの計画の焼き増しで、これまでやってきたことを少し改良して継続実施する、というものだ。
そこで掲げられている大目標は以下の通り。

To improve population health and health equity through continuous improvement in the quality and responsiveness of health services, and by making the most effective and efficient use of available resources

訳すと

保健サービスの品質と応答性の継続的改善と、有効な資源の最も効率的・効果的な利用の実現を通し、公衆衛生と保健公正を改善すること

となる。

ちなみに、Google先生を使ってもちゃらんぽらんな訳しかしてくれないので、幾分意訳が混じっている。
うん、なんとなく意味は分かる。
しかし困ったのが、「保健公正」ってなんなんだ?
平等に、広く医療サービスが国民全体に行きわたる事、みたいな意味で合ってるのか?
いやいや、ここで曖昧な理解は後に色々と軋轢を生むことになりかねん、という事で、調べてみました、「Health equity」。

ところが、この「Health equity」、日本語として適切な単語が存在するわけではないらしく、明確な定義も全く出てこない。
しょうがなく、英語のWikipediaに定義が載っていたので、これを参考にすることとした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Health_equity
そしてその中の記載によると、かなり面倒くさいことにこれ以外にも「Health equality」なる言葉が存在し、両者でどうやら意味が異なるらしい。

Health equity
Health equality

クッソ似てる。2文字しか違わねえ。

もう同じで良いじゃねえか。

日本語に訳せば、どちらも「保健公正」とか「保健平等」とか、なんとなく似たような意味になるだろう。
しかし、厳密にはその意味するところには違いがあるそうだ。

Wikipedia先生によると、

Health equity is different from health equality, as it refers only to the absence of disparities in controllable or remediable aspects of health.

訳すと

「保健公正」は「制御可能か、救済可能かという側面の保健に格差がない」という意味をもってのみ、「保健平等」とは異なる。

ハァ☆、ごめん、ちょっとわかんない。

ただ、わかりやすい例が後述されていたので、その例をかいつまんで説明する。

例えば、とある国民の平均年齢が著しく低い。
その原因は、国内の医療サービスへのアクセス手段が著しく欠落しているためであったとする。
となると、国民全員に等しく医療サービスが行き届かない訳なので、そこに「不平等」は存在しない。
著しく低い水準でありはすれど、それは平等なのである。

しかし、それは社会的に見れば当然、社会問題として指摘されうるべきものであるのは明白だ。
そういう意味でこの例では、保健の状況は「平等」だが「不公正」、「Equality」だが「Equity」ではない、ということである。

ちなみに、「不平等」であれば「公正」であることは有り得ない(と「Health Equity」の定義上はなっていると思われる)ので、ここにおいてのみ、equityはequalityを内包する単語として定義されることになる。


いやちょっと待て、その例でいうと、お金持ちならいくら医療サービスへのアクセスが悪かったって何かしらの方法で良い医療を受けることができるんじゃないか!?

と思った方、良いご指摘です。

しかし、それも「国外まで医療サービスを受けに行けば」の話である。
国内にいる限りサービスを満足に受けることができないのであれば、やはりそこに「不平等」があるとは言い難いのだ。

キリバスという国に目を向けてみよう。

この国は、残念ながら医療の質が高いとは決して言えない。
医療機器のみを見てみても、国内には1台たりともMRIすら存在しない。
そもそもそんな精密機械があったところで、電圧の不安定さですぐ壊れるだろうし、そもそも使いこなせる人がいない。
もしそれらのような高度な医療機器を使用する必要がある病気に罹った場合、もしくは怪我を負った場合、フィジー、オーストラリア、ニュージーランドなどで治療を受ける必要があるか、もしくは死ぬかしかない。
当然お金があれば、国外で治療を受けることも可能であろう。
しかし、そこで発生しうる不平等さは「経済格差」として取り扱われるべき問題である。

問題は、たとえお金があろうが無かろうが、「国内では」皆一様に低い水準の医療しか受けられないというところにある。
そして大目標に話を戻せば、キリバス政府はその状況に気が付き、その状況へNOを突き付け、その状況を改善する意志を見せている、ということだ。
上述した例だけではなく、保健公正という点から見て他にも様々な問題が、このキリバスにはあるのだろう。
本当に公正な国民の健康を実現するには、乗り越えない壁の数が多く、そして大きすぎる。
できることからやれば良いが、逆に、できることしかできないのだ。
つまりは、本当の意味で草の根からの活動となる。

草の根活動と言えば、我々青年海外協力隊の十八番である。
現に、我らがキリバス隊員のうち、医療隊員の有志が集って行っている「サンダルプロジェクト」なる企画は、開始から1年を過ぎ、試行錯誤を重ねながらもその活動は徐々に軌道に乗っている。
この企画は現地の新聞にも取り上げられたことがあるほど、意味のあるプロジェクトであると同時に、まさに草の根からの活動であるといえる。

こちらに関しては、また後日触れさせて頂こう。

さて、私にとっての「草の根」は、いったいどこにあるのだろうか。

キリバスへ来て、ようやく半年。
先進国の常識に漬かりきっていたIT技術者の迷走は続くのであった。

2016/07/18

スーパーコキオキタイム

1979年7月12日、それまで長く続いていたイギリスからの支配を逃れ、タラワ島をはじめとした33の島々を含む広大な領域が、一つの共和制国家として独立を果たした。
その国家は、対外的には「ギルバート諸島」から捩った「キリバス」という国名で呼ばれることになる。
そしてその後、この7月12日は国民にとって最も特別な日の一つとなり、その日を含む1週間を「インデペンデンスウィーク」として定め、国民の休日として1週間丸々国を挙げてのお祭りが開催されることになったのである。

ということで、半年ぶりくらいの長期休暇を頂きました。
期間としては1週間+土日=9日間と、日本でいうところのゴールデンウィークかシルバーウィークに相当する。
連日、色々な催し物やイベントが開催されたりするわけだが、目玉となる日はやはり12日火曜日。
12日は朝早くから関係各国の大使などが参列する大々的なパレードがあったりする。
そのパレードがあるタラワ島の政治の中心地「バイリキ」においては、普段は見られない出店なども数多く出店し、タレントショーや美人コンテストなんていうのも開催されるというから驚きだ。

私もこの1週間、何日かはバイリキへ向かい、色々なイベントを見たりした。
ちなみに、どこでいつどのようなイベントが開催されるかは、事前に新聞で全て告知される。
A4の紙4枚分に相当する数のイベントが開催されるわけだが、私の目当ては「スポーツイベント」だ。
この国でスポーツというと、一番はサッカーらしいのだが、正直サッカーは個人的に興味がない。
興味があったのは、この国で普及しているという「タイクァンドー」と呼ばれる格闘技だ。
このタイクァンドーであるが、元は韓国の「テコンドー」で実際には見たことはないが、恐らくテコンドーと同じような格闘技なのだろう。
このインデペンデンスウィークのどこかで、このタイクァンドーの試合があると聞いていたので、是非とも見たいと思っていた。
しかし、手に入れた新聞のなかに入っていたスケジュールのどこを見ても、タイクァンドーの記載が見当たらない。

残念、今年はタイクァンドーのイベントは開催されなかったようだ。

まあ、とはいっても、今回はもう一つ、是非とも見ておきたかったスポーツがあったのだ。

それは、ずばりバレーボール。

私が現在ボランティアとして所属している組織はMinistry of Health and Medical Serviceという省庁の、Health Information Unitと呼ばれる部署だ。
その部署の中で、私のカウンターパートに当たる女性が、なんとバレーボールをしているのだ。
聞くと、その女性の旦那さんもバレーボールの元プレイヤーだったそうだ。
この旦那さんが結構やり手で、タラワ島内にあるチームのうち、男女併せて3つのチームのコーチを務めており、海外遠征などにも行ったりすることがあるらしい。
カウンターパートが所属する女子バレーチームもそのうちの一つで、これら3つのチームが出場するバレーボールの試合が、このインデペンデンスウィークに開催されたのだ。

予選は、インデペンデンスウィーク始まってすぐの7月9日。
カウンターパートが所属するチームは順当に勝ち上がり、決勝戦へコマを進めた。
一方、旦那さんがコーチを務める男子チームはというと、最初の2セットを落とし、危機的状況から3セット連取の大逆転劇を見せ、辛くも決勝進出を決めた。

決勝戦のある7月12日は奇しくもインデペンデンスデイ。
多くのキリバス人が集まるインデペンデンスウィークの中でも最も盛り上がるこの日、バレーボールコートの周りには人だかりができていた。
そんな中行われた決勝戦。まずは女子バレーからだ。
カウンターパートは残念ながら控え。
しかし、チームは3セットを楽々先取し、あっけなく優勝を決めてしまう。
圧巻だったのは、そのレシーブ力。
不足気味の攻撃力を補って余りある防御力で終始相手を圧倒しての圧勝となった。

続く男子バレーは、接戦となった。
旦那さんが率いるチームのうち、女子チームが防御力とするならば、男子チームは攻撃力。
中でもエーススパイカーのスパイクが面白いように決まる。
しかし相手チームの攻撃力もなかなかのもので、試合は双方打ち乱れての打撃戦となった。
1セット取れば1セット取られる、これを二回繰り返し、迎えた最終セット。
わずかに、こちらのチームの地力が勝ったのか、デュースまで持ち込んでギリギリで勝利を収めることになった。

最後の最後、エーススパイカーが決めたスパイクでラストポイントが入った瞬間に沸き起こる大歓声。
控えからチームメイトがコート内に乱入、コーチであるカウンターパートの旦那さんも乱入。
コート内は、優勝を喜ぶ熱気に包まれた。

さて、男女両チームの優勝を見届けて暫くして、さて今から何をするかと思ってコートのサイドでボーっとしていたら、今回の優勝の立役者である旦那が話しかけてきてくれた。

「ようMasu(私のここでの仇名)、あんた酒飲めるか?」

「お、旦那!優勝おめでとう!俺?酒なら少しは飲めるけど」

「よし、じゃあ飲むぞ!」

「え?お、おう」

そういって、彼は私をチームメイトが集まっているところへ引っ張っていく。

「ほれ、どうぞ」

「ん、これは?」

「コキオキっていうんだ、飲んだことないか?」

「いや、名前はよく聞くけど、初めて飲むな」

「そうか、じゃあこれの飲み方を教えてやる、こう飲むんだ!」

そう言うなり、私に渡したコップとは別に自分が持っていたコップの中身を、一気にあおる旦那。

ちょ、イッキかよ!

コップの大きさはさほど大きくはないため、それほど量的には大変ではないと思われるが、アルコール度数的には大丈夫なのだろうか。

一抹の不安を覚えながらも、私も郷に従う。

「OK, I’ll go!!!」

コップの中身を一気にあおる。

途端に口に広がる酸味と、得体のしれない味。
これまで味わったどんなお酒とも違う、決して不味いというわけではないが、慣れが必要だ。

いや、慣れれば普通に美味いかもしれない、きっと。

この「コキオキ」であるが、材料はココナッツの「樹液」。
ココナッツの木に傷をつけ、括り付けておいた瓶に少しずつ抽出したものを発酵させて作る。
早い話が、日本でいう「どぶろく」、という話を聞いたことはあったが、どぶろくというものを飲んだことがない私には、経験上の比較対象がない。

「うっぷ、これ、アルコール度数何%だ?」

「すまん、気にしたことないからわからん」

そりゃそうだ。
基本的に自家製である以上、その発酵度合いも時によってまちまちになるだろうし、そもそもこの国の人たちがそんな細かいことを気にするわけがない。
要は、酔えればいいんだから。

気が付くと、私は男子バレーチームの面々が集う円陣に組み込まれていた。
10リットルはあろうかというコキオキが入った樽を囲んでバレーコートのど真ん中に陣取るチームメイトと私。
期せずして、私は祝勝会へ参加することになったのだ。
チームメイト以外の外国人は私一人。
それどころか、チームメイト以外のバレーボール関係者すら、私しかいない。
なんて名誉なことなのだろうか。
というか、私ここに居て良いのか。

円陣を順々に、コップが回っていく。コップが回ってきた人は、樽からコキオキを掬い、あおる。

「Hey Masu、Don't you forget how to drink it?」

「Year, I know how to drink it!!!」

私はそう言いながら、コップの中身を空にする。
それを繰り返すこと10数回。
歌って踊って笑って、あっという間に3時間が経過した。

最終的に、私が飲んだコキオキの量は、コップ17杯。
同じ方面へ向かうというチームメイトの車へ乗せてもらい、家へと向かう。
ちなみに私が住んでいる家の大家はこのタラワ島においてはかなりの有名人で、その大家の名前を告げただけで場所を完璧に把握してもらえた。

車に乗ったところまでは覚えているのだが、次に私の記憶に残っているのは、次の日の朝、とんでもない頭痛と体の重さを感じながら目を覚ましたことだ。
完全無欠のハングオーバーにより、水曜日を完全に寝潰してしまうというオチ付きで、私の人生で上位10番目以内には確実に入る「飲み過ぎ」の夜、スーパーコキオキタイムは幕を下ろした。

コキオキ、また飲みたいけど、原料がココナッツだから、コレステロールとか大丈夫かな・・・。

2016/03/17

Country Road

最近、自分のPCが直ったことで、夜に出来る活動が少し広がった。
そのうちの一つに「英語の勉強」があるのだが、いったんやり始めると時間を忘れて取り組んでしまうという癖があるため、時折、夜シャワーを浴び損ねるという事態に遭遇する。
実は昨日もそうだったので、今日は朝シャワーだ。
本当は髪の健康ためには朝シャワーはよろしくないようなのだが、まあ浴びないわけにはいかない。

ちなみにこちらのシャワーは基本的には水である。
湯沸かし器の付いているようなところは基本的には高級ホテルかブルジョワな家庭かのどちらかだ。
そもそもシャワーなんていうものがない家だって存在するので、シャワールームがあるだけマシというものだ。
これまたちなみに、シャワーのない家に住んでいる人達は風呂はどうするかというと、まあ海があるし、なんだったら井戸水浴びればいいし、天然のシャワーだって頻繫に降ってくるので、別に問題はない。
年中暑い国だからこそ出来ることだ。

さて私はというと、シャワーがあるというありがたみをかみ締めながら毎日風呂に入っているわけだが、今朝は朝シャワーを浴びたことを少し後悔することになる。
シャワールームに入り、軽く水を浴びて身体を濡らした後に石鹸で頭と顔を洗い終えたところである。
泡だらけの頭と顔をすすぐため、再びシャワーの蛇口をひねるのだが、水が出てこない。
いや、出てくることは出てくるのだが、微々たる量しかでてこない。
なんてこった。

この事態が発生した原因は、一言で言えば「停電」である。
この国では各家庭の上水は基本的には自給自足(雨水や井戸水)で、水道も電気が必要である。
電気がなくても水道のタンクとの高低差から少しくらいは水は出てくれるのだが、本当に少ししか出てこない。
しょうがないので、今回はそのチョロチョロの水を使って頭と顔をすすぐ。
が、やはりとてつもなく時間がかかる。
人間は割りと電気があれば何でも出来てしまう生き物だが、逆に電気がなければこうも脆弱な生き物に成り果ててしまうものかと改めて実感してしまった。

最近、私の住んでいる家付近においては、朝から夕方にかけて電気がずっと停まっている。
朝は大体7時半から、夕方は5時くらいまでだろうか。
しかも土日は停電しない。
まるで、人が働いている時間を見計らって誰かが電気を停めているかのようだ。
まあ、実際意図的に電気を遮断しているのだが。

キリバスの首都タラワ島においては、電柱があまり存在しない。
気にしていないだけでどこかにあるのかもしれないが、私は見かけた記憶がない。
ここで見かける高くて直立した物体といえばココナッツの木かそれ以外の南国の植物がほとんどだ。
ならば、電線はどうしているのか?
答えは地下ケーブルだ。
タラワ島は基本的に細長い地形となっているので、その主要道路はただ一本、国道1号線が存在するのみである(実際にそういう名称があるかどうかはわからない)。
なので、その道路に沿って電気のケーブルが一本地下を通っている、はずである。
そして、もし道路でなんかしらの工事があったりすると、安全を考慮して電気を停めるのである。
周囲一体を全て停めてしまうあたり流石としか言いようがない。
なお、私の住居の周囲では最近道路工事をずっとしている。
私がこの国に来る前にこの周辺の道路のコンクリート舗装は完了し、ほぼ道路としての体裁は整っているはずなのだが、まだ何かやってる。
まあ、気が付くと標識が立っていたり、道路に線が引いてあったりと少しずつグレードアップしているので、やることが全くないということはないのだろうが、電気が停まるのだけはどうにかして欲しいものだ。

道路工事のために、俺たちは洗濯も入浴もできねえ!

なお、道路のコンクリート舗装事業は現在も継続中で、タラワ島のどこかで今もMacDowという業者が道路にコンクリートを流すというお仕事を頑張ってくれている。
このコンクリート舗装のおかげで、交通の便がかなり向上したことは私が語るまでもないのだが、本来であれば去年のうちに完了しているはずであった工事が、まだ進捗は途中である。

道路工事が完了しなければ、これからも停電は続く。

2016/03/08

健康は日々の食事から

我々、青年海外協力隊員は、それぞれ皆異なるミッションを抱えて様々な国で活動をしている。私の場合はコンピュータ技術で、この国の電子カルテシステムの保守運営のサポートをすることだ。

一方で、隊員全員が全て抱えている、共通のミッションのようなものが存在する。
その一つが、「必ず生きて日本へ帰ってくること」だ。

そして五体満足が原則。それが出来なければ、晴れて「Mission Failure」となる。
なので、事前訓練においては健康管理やリスクマネジメントといった内容の講義を山のように受けさせられ、様々な知識を頭に詰め込まされる。0.1%でも生存確率を上げるためだ。元より危険な地域へは派遣されない青年海外協力隊なので、数あるボランティアの中でも特に安全とは言えるのだが、こういった入念な事前準備がさらに生存確率を上げていることはもはや語るまでもない。

さて、それだけ健康やリスクに関して入念な事前準備をしていても、やはり何が起こるかわからないのが人生というもので、これは途上国だろうが先進国だろうが変わることはない。交通事故に遭うときは途上国だろうが先進国だろうが遭う時は遭うし、病気にかかるときは途上国だろうが先進国だろうがかかる時はかかる。まあ何が言いたいかというと、要は風邪を引きました、ということだ。日本に居た時は就職してからというもの風邪なんてひいた記憶は、まああるにはあるが、休暇を取るほどの風邪は記憶がなかった私が、こっちに来てからふた月足らずで風邪でダウンとは、まあなんとも情けない話だ。

3/2(Wed)
その日の夕食は軽く、ツナサンドにカップスープで済ませたのを覚えている。食事の前から軽い胃のムカつきを抱えてはいたのだが、メシをしっかり食ったら治るだろうという脳筋特有の無茶理論を展開しながら、乗り切ろうとする。思えばその日は職場でもウィンドブレーカーを羽織ったりするなど、少々寒気を感じていたりもした。

ちなみに職場で私の机があるのはサーバールーム。エアコンが24時間365日フル稼働で、気温は常に25度に抑えられている部屋だ。日本国内の一般的なサーバールームと比べれば暖かい方だろうが、そんなにでかいサーバーが大量に置いてあるわけでもないし、何よりそこで人が作業することを想定しているとなれば、それ以上に寒くする必要性も必然性もない。だが、私にとってはその気温でも時折寒さを感じることがある。生来の寒がりなのである。

さて、そんな寒がりな私がその日、夕食を終えた後にいつも通り映画を見ていたときのことだ。徐々に、本当に徐々に胃のムカつきが大きくなっていく。その日は往年の名作「Back To The Future」を英語音声、英語字幕で見ていたのだが、途中から全く内容が頭に入ってこなくなる。別に吐くほどのムカつきではないのだが、胃の中に鉛でも入っているのではないかと思うような。これは何かに当たったか?と思いながら、ひとまず日本から持ってきた「新三協胃腸薬」の錠剤が入っているビンの封を開く。用量の3錠を水で流し込み、もはやDVDの内容など頭に入ってこなくなったので、PCの電源を落とし、ベッドに横になる。この時、夜の9時。

しっかり寝れば治るだろうという脳筋特有の無茶理論を展開しながら、ベッドの中で眠くなるのを待つ。しかし、待てども待てども眠気は来ず、代わりにやってくるのは胃の嘔吐感。徐々に質量を上げていく胃の中の鉛。苦しみに耐えながらベッドの中でもがく。2時間ほどベッドで横になっていただろうか、半分起きて半分寝ているような状態から、ようやく意識を手放すことに成功する。

そして日付が変わった午前2時ごろ、食べたツナサンドとカップスープを全て吐いた。

3/3(Thu)
夕食を全て吐いた私は口の中をゆすいだ後、再び布団に入る。食事を全て戻したことで胃のムカつきはなくなったのだが、吐く際に胃にかなり無理がかかったのか、今度は少し胃痛を抱えることになる。そして、吐くのと一緒に下からも水のような便が滝のようにあふれ出てくる。それにつけ加えて猛烈な寒気が私を襲う。体も猛烈に熱いのがわかる。そんな気力もなかったので測っていないのだが、体温は恐らく39度を超えていたはずだ。余りの寒気に、タオルケットに包まるようにして眠る。体の不調が眠りを妨げたため、その日は結局ほとんど寝ることが出来ずに朝を迎えることになった。

朝7時。いつも通りセットしていた目覚まし時計が鳴る。普段ならここで「もう20分・・・」と言いながらタイマーを再セットしてDive to bed againなのだが、今日はそうはいかない。重い体を起こし、部屋の扉を開けてルームメイトに体の不調を伝える。職場への連絡も忘れない。8時ごろ、ルームメイトが部屋を出た後で、自分の食事を始める。その日の食事はヨーグルトとパン、以上。かなり酷い下痢と胃腸の不調により、消化の悪いものは口には出来ない。この国で手に入るであろう消化の良いものといったら、今のところ思い浮かぶのはこのヨーグルトとパンしかなかったのだ。

ちなみにこのヨーグルト、かなり前から何世代にもわたって自家培養を繰り返してきたものなのだそうだ。他の隊員もこれを行っているらしく、牛乳さえあれば半永久的にヨーグルトを食べ続けられる。なんとありがたい話なのだろう。私もこれを後輩へ受け継いでいこう。まあ今は私がその恩恵を受けるときなのだが。

食事を終えるとお薬の時間だ。今回服用した薬は全て日本から持参したもので、ラインナップは以下の通りである。

改元・・・総合感冒薬 3錠
新三協胃腸薬・・・総合胃腸薬 3錠
ビオフェルミン・・・整腸剤 3錠
マルチビタミン&ミネラル・・・栄養剤 1錠

占めて10錠。まるで「強力わかもと」みてぇな分量だな!

ビタミン剤は1日1錠なので朝のみ、これ以外の計9錠を朝昼晩の3回服用する。薬はこれ以外にも解熱剤としてタイレノール(解熱鎮痛剤)を持ってきているのだが、これはまたの機会に取っておく。熱を測ると38度あったので解熱剤を飲んでも良かったのだろうが、風邪を引いたときの熱は必要なものだという話は有名なので、敢えて熱は高い状態をよしとする。

さて、やることをやり終えると静寂が訪れる。聞こえるのは波の音だけ。日中とはいえ、明かりを消していれば薄暗い部屋の中。胃のムカつきがほとんど収まっているので、体調は頭が熱でぼんやりとするのと若干だるい以外に問題はない。これならベッドに入ればすぐにでも眠れそうだ。ということでその日は本当に何もせず、寝ては起きてを繰り返し、起きている時間も椅子に座ってボーっとするだけの時間を過ごす。ここまで何もしなかった1日はかなり久しぶりではなかっただろうか。結果として1日で熱は下がり、体調も次の日には問題なく復活した。

ビオフェルミンの飲みすぎで便秘になった以外はなァ!

さて、結局1日で回復してしまったこの体調不良であるが、結局原因はなんだったのだろうか?こっちは風邪と決め付けているのだが、果たして本当にそうなのか。ルームメイトは同じ青年海外協力隊で看護師として来ている男性なのだが、その人が言うにも恐らく風邪であるということなので、まあそうなのだろう。要は胃腸を中心とした症状が多かったため、食べ物が原因の疾患も考えられるな、と思ったのだ。しかし、例えば病原性の大腸菌やコレラやノロだったら、間違いなくこの程度のダメージではすまなかったはずだ。この国にそういった菌が居るかどうかはわからないが、ありえない話ではないだけに今回は運が良かったと考えるべきだろう。

あとは風邪の予防だ。今回の体調不良を風邪と断定するのであれば、今後どうやって風邪を予防するかが課題となる。そもそも、なぜ風邪を引いてしまったか。恐らく考えられる原因は一つ、ビタミン不足だ。常日頃バランスの良い食事は心がけてはいるのだが、どうしたって野菜不足は避けられない。そうなると、もはや日常的にビタミンをサプリメントで補う他方法はないだろう。日本から持ってきたビタミン剤360日分が火を吹くぜ。

さて、健康第一の協力隊員ですが、皆様におかれましても健康に過ごされますようお祈り申し上げます。


2016/02/29

Simple is best

私が日本でSEをやっていたときは、とても沢山の失敗をしてきたものだ。
それこそ酷いプログラムは量産してきたし、それによって色んな人達に多大な迷惑をかけてきた。
中には今でも絶賛稼働中のものがあるかもしれない。

とある漫画の中で、とても優秀な外科医がこのような言葉を残している。

外科医は、死なせた患者の数だけ成長する

当然、医療の世界で死なせていい患者など一人として居るわけは無い。
上記の言葉を残したキャラは、この点に関しても言及している。

ならば、私はどうだろう。
量産してきたクソコードの数々。
バグは当たり前、ソースは読みづらい、汎用性も低く、ドキュメントとの整合性も取れているかどうかわからない。
そもそもドキュメントの日本語すら、なんかちょっと怪しい。

しかしそんな私でも、1年前に自分が書いたコードを見たときにいつも思うのは、
「1年前の自分を殴りたい」
だ。

よくもまあ、こんなクソみたいな仕事ができたな、と。
つまり、成果物を作ったときに感じた反省点や経験はしっかりと身についているということなのだろう。

ITエンジニアは、書いてきたクソコードの数だけ成長する

それもまた事実だ、ということだ。

さて、そんな私がキリバスの保健医療サービス省という省庁に勤め始めてそろそろ1ヶ月が経過しようとしている。
正確には少し短いが、今日で2月も終わりなので、切りよくひと月経過ということでひとつよろしく。
少し前回のエントリーから期間が開いてしまったのにはちょっとした理由があるのだが、まあPC関係のトラブルがまた少しだけあったというのと、気持ちの問題だ。

そうそう、なぜかはわからないが、壊れたと思っていた私のノートPCがなぜか復活したのだ。
壊れた理由がわからなければ復活した理由もわからない。
少なくとも、アダプタは壊れていなかったらしい。
事が起こったのは一昨日の夕方、何もすることが無くて気まぐれにノートPCの裏蓋を開けてみていたときのことである。
バッテリーを装着したままにしていた状態だったのが功を奏したのか、ふとした瞬間に電源ボタンを押してしまった時に、急にPCが起動し始めたのだ。
頭の中で「!」マークと「?」マークが連呼し、あたふたしている間にwindowsが立ち上がる。
全く意味がわからない。

結果として、現在職場にこのPCを持ち込んで仕事をすることが出来ている。
現状考えているのは、マザーボード関係の接触不良だ。
ということは、またいつこのPCが動かなくなるかわからないということだ。
まあ、別にこのPCが無い間も普通に仕事は出来ていたので問題はないのだが、ブログを書くモチベーションという点でこのPCはあった方がいいなー、と思う。
なぜかというと、職場のパソコンは直近で再度OSを再インストールして以来、英語のまま使用しているので、日本語対応をするのが面倒くさいからだ。
すなわち、また私のノートPCが壊れてしまったら、そこから先はこのブログも英語で書かざるを得なくなる。

書くぜぇ~、超英語書くぜぇ~。


話がずれてしまった、仕事の話をしようとしてたのだ。

といっても、現状私がやっている仕事にプログラム関係の仕事はほとんど無い。
ハードウェアの管理やDBのメンテナンスなど、私がこれまで余り触れてこなかった分野の仕事がほとんどだ。
なぜ私がこれをやるかというと、他に誰もやる人が居ないためである。
いや、できる人が居ない、といった方が正確か。

ただ私が今管理しているシステムは色々な方面からかなり広く認められているようで、世界銀行(WB)や世界保健機関(WHO)から訪問される方々もこのシステムのことを知っていたりする。
このシステムから得られるデータを元にして、統計速報も作成していると思われる(他に統計情報を収集できる仕組みがあるとは思えないため)。
つまり、このシステムは既にこの国にとって無くてはならないものになっていると言っても過言ではない。
私の前任に当たる方は、私に「もしあなたがこのシステムが必要ないと判断したのなら、このシステムを使わないという判断も有りだと思います」と引継ぎ資料を締めくくっていたが、とんでもない。


私の歴代の前任に当たる人達が、このシステムを作り上げた。
前々任者がシステムをイチから作り上げ、スタートアップさせた。
前任者がシステムをアップグレードし、成長軌道へ乗せた。

しかし残念ながら、これを管理する体制は整っているとは言い難いどころか、ゼロに近い。
となると、現在私が抱えている課題はまず明確だ。
それは「システム管理体制の確立」と、「システムを安定軌道へ乗せる事」である。
そのためにまず必要なのは、運用マニュアルの作成と管理要因の確保である。

さて、「運用マニュアルの作成」や「管理要因の確保」と簡単に述べたが、これを実際にやるとなると事はそう単純ではない。
なぜかというと、「日本流のやりかたをそのまま現地に持ってくるわけにはいかない」からだ。

青年海外協力隊の使命の一つに、現地の「自助努力の活性化」がある(呼び方とかは違ったかも知れない)。
すなわち、現地人が現地人の力だけで出来ることを出来るようにする、というものだ。
それは必ず持続可能なものでなければならず、現地人が途中で飽きて放り出してしまうようなものであってはならない。
過去の隊員の中にも、独りよがりの自助努力を現地に押し付け、失敗してきたケースが数多くあったと聞いている。

特に、キリバス人は「面倒くさがり」であると言われている。
キリバス人自身がそう自覚しているかは定かではないが、我々日本人からしてみたら物凄く面倒くさがりなのだそうだ。
私はまだ任地へ来てふた月ほどなのでそこまで感じることは無いが、確かにレストランで出てくる食事の味付けは皆大雑把な味付けの物が多く、簡単に作れるような物ばかりだ(美味しいものは美味しいのだが)。

さて、この「面倒くさがり」という点を管理体制に組み込むとなると、どういう可能性を考慮しなければならないか、である。

例えば、引継ぎが満足になされない。
例えば、マニュアル自体を紛失してしまう。
例えば、サーバーが壊れたら壊れっぱなしにしてしまう。

これらをいかに管理するか、管理できるような体制を作るか。
否、「管理しやすい」体制を作ることが肝要なのだろう。

何事においてもそうだと思うのだが、「手軽で簡単便利でお得」が全て満たされたコンテンツは最強だと思う。
つまりは「ちょうど良い」ということだ。
つまりは広く人々に浸透し、長く愛されるということだ。

故スティーブ・ジョブズの残した言葉にこんなものがある。

最も重要な決定とは、何をするかではなく、何をしないかを決めることだ。

この言葉を、私はこう読み替えている。

システムに重要なのは、何を作るかではなく、何をつくらないかだ。 

複雑は仕組みは決して長続きはしない。

ITエンジニアとしてクソコードを書き続けてきた私が、彼の残した言葉の中で最も共感できる言葉だ。


果たして、キリバス人にとっての「手軽で簡単便利でお得」は一体どこにあるのだろうか。

2016/02/17

(^o^) < アリだー!

今回のエントリーは、苦手な人には少しつらいエントリーとなるかもしれないので、ダメだと思ったら迷わず戻るボタンを連打してください。

まあ単純に、虫に関するお話です。
皆さんにとっては幸か不幸か、写真はあまり残っていません。

ここキリバスに来てからというもの、色々なものに対してかなり耐性がついたと思う。
途上国での食事、水、現地人との触れ方。
そして何より、虫である。
元々そこまで苦手ではなかったのだが、こちらではかなりの長時間、虫やそれ以外の生物と共に生活をする。
なんせ南国。
なんせ途上国。
家の作りが甘い上に一年中虫が生息できる。
少しでも食べ残しを床に放置でもしようものなら、1時間後にはアリが大量発生する。
ただ、蚊と蝿に関しては寒い季節がないためか長寿命となることが多く、個体によっては反応がとても鈍いものがいる。
まさか蝿を手づかみで捕獲することができる日が来るとは思わなかった。

そんな南国のこの島において、私が個人的に最も気を付けなければならない生物は何かを挙げるとするならば、それは間違いなく「アリ」だ。
こいつらに比べれば、ゴキブリもネズミも可愛いものである。
基本的に私が認識しているのは、アリにも黒いものと赤いものの二種類が存在し、赤いやつは他の生物を積極的に襲う。
要は、超好戦的で攻撃的。
椅子に座ってキーボードを叩いているときに脛にチクリとした痛みが走るときは大体こいつだ。
噛むときに唾液か何かが噛み跡から侵入することもあるらしく、人によってはこれでアレルギーが出たりすることもあるらしい。
大きさ自体がそれほど大きくないので、あらゆる住居に侵入可能。
幸い私が住んでいる家には出ていない。
代わりに黒いアリが頻繁に出没するのだが、こいつらはこいつらで質が悪い。

黒いアリは生きている生物を襲うことは無いようだが、それでも大量に地面に湧いているところを発見するとゲンナリする。
この黒いアリで実は私は引越し早々大失敗を犯している。

あれは忘れもしない引越し二日目のことだ。
その前日、引越し初日の夜に窓の隙間から侵入するアリにゲンナリしたため、アリが何匹か這っている床の隅へ向けて殺虫スプレーを噴射したのである。
床にいたアリはすぐに倒れ、ピクリともしなくなる。
うん、現地で購入したモノにしては中々の威力だ。
残留成分が床にも残るらしく、後からやってくるアリも次々に殺虫剤にやられて動かなくなっていく。
まあ、普通に考えればこの時点で気付くよねっていう。

次の日、起きて部屋の隅を見てみると、なんだか昨日よりもかなり黒ずんで見える。
メガネをかけていなかったのでぼんやりと黒く見えるだけだったのだが、やはり黒い。
なんだか嫌な予感がし、メガネをかけて改めて見てみると・・・。



 (^o^) < アリだー!



それも「大量」なんていう生やさしい言葉ではとても表現しきれない。
おおよそ、巣がひとつ壊滅したのではないかという数のアリが、そこにはいた。

カラクリはこうだ。
前日、殺虫スプレーを撒く前から、アリは私の部屋の何かの生物の死骸があることに気がついており、その死骸に集る準備が整っていた。
そこへ、私が殺虫スプレーを噴射、死骸に集るアリの先陣隊が全滅する。
後衛としてサポートに回る役目だったはずのアリは、予定通り時間差で現地に到着するも、戦地に撒かれた大量の毒物により二階級特進を果たす。
更に後衛のアリがやってきて、以下略

そのままにしておくという選択肢はもはやあり得ないので、仕方なくほうきとちりとりを手に作業を開始する。
しかし、いざほうきで戦士たちを掃こうとすると、その内の50%程がもぞもぞと動き出すではないか。
いやお前らまだ死んでなかったんかい!!!
どうやらあの殺虫スプレーは、即死の効果ではなく虫の神経を麻痺させることにより、結果として死に至らしめるもののようだ。
従って、彼らの中には死に至らずとも四肢の動きを奪われ、そこから脱出できずにいたものも数多く居たのだろう。

関係あるか!全員外に出ろ!

全てのアリを綺麗に掃き取り、ちりとりで掬い上げる。
でかい黒い塊が出来上がったのが、遠目からはおはぎに見えなくもない。
・・・辞めよう、おはぎが食えなくなる。


という事で教訓、殺虫剤は、気をつけて使おう。


そんなこんなで波乱の幕開けとなった新居での生活なのだが、つい昨日、さらなる驚きの展開が待っているとは予想もしていなかった。
それは、私がその日の課業をすませて帰宅し、夕食を作っていた時のことだ。
前述した通り、家の中にはアリが湧くことがあるので、食料品やゴミに関しての取り扱いには最新の注意を払う必要がある。
例えばゴミ箱。

ダンボールを2つ重ねているが、下の方は空洞となっている。
なぜ重ねているかというと、これはネズミ対策を兼ねているのだ。
ネズミはこのようにダンボールを重ねていると、上に登ることができない。
下手に地面に置いておくと、密閉されているものもネズミがかじり、内容物が露出することでその他の虫を寄せ付けてしまうのだが、それを防ぐことがこのダンボール2つ重ねの狙いだ。
そして、この対策は公を奏しているのか、ネズミによる被害はこの対策後は発生していないようである。

しかしその日、このダンボールから異常を感じることになる。

ガサガサッ

二列あるうちの右側が燃えるゴミ、左側が燃えないゴミなのだが、燃えないゴミの方からなにやら異音が聞こえてくる・・・。

あー、これは、何かがいるな。

まずは下側のチェックである。
上のダンボールをどかし、2つある土台のダンボールを恐る恐る確かめる。
何もいない・・・。
協力隊の同期隊員から「ゴキブリバスター」というありがたい異名を授けられた私でさえ、突然の出来事には多少なりとも驚く。
なので、可能であればいきなりパッっと出てくるとか、そういうのは辞めて欲しい・・・。

次に、ダンボールの中に入っているビニール袋を改める作業へ移る。
ダンボールから袋を持ち上げ、内容物とその周辺に何もない事を確認。
何だよ、何もいねえじゃんか。
ホッと一息つき、ビニール袋とダンボールを元の形へと戻し、再度調理へととりかかる。

しかし、次の瞬間。


ガサガサガサッ!!!


今度は確かに聞いたぞこの糞野郎!!!


聞こえた音から、かなりの大きさの生物がいるものと思われる。
しかし、なぜ見落とした?
わからないが、再度確認をする。
ダンボールからビニール袋を取り出し、再度確認するもやはり何もいない。
再びビニール袋をダンボールへ戻し途方にくれていると、ダンボールの隅に何かがいるのを発見してしまう。

・・・何だこいつは。

なぜだ、なぜお前がそこにいる!




































(^o^) < カニだー!




いやお前マジでどっからなんの目的で
そこに入ったんだよァ?!





父さん、母さん、兄さん、キリバスでは燃えないゴミに、カニが湧きます。

真相は、知りません。


2016/02/11

PCを永眠させるという異名

先週から新居へ引越しをし、新しい生活がスタートしている。新居は2DKのとても広い家だ。
同じボランティアとして病院に務めている男性看護師の青野氏と同居となる。
私の前任であった方とも同居していたという事で、すでに家の中には生活に全く不自由しないほど家具やその他一式が揃い踏みであった。
青野氏はとても料理好きという事があり、これまで色々な食事を作ってくれているのだが、いつまでもそれに頼りっきりというのもまずいので、少しずつ覚えていこう。
リビングめちゃ広い!!!!!!!

さて、新しい生活がスタートしてから早速トラブルが一件発生している。
それは、日本から持ってきたノートパソコンが早速故障してしまったのだ。
電源ボタンをいくら押してもウンともスンとも言わなくなってしまっただけでなく、電源プラグを差し込んでも充電が開始しなくなってしまった。
恐らく電源の問題なのだろうと思ったので、まずは電源アダプターをテスターで調べる。
もしアダプターが生きていれば20Vと表示されるはずだ。
結果、表示されたのは「0V」。
よし、死んでるな。

アダプターが死んでいることがわかれば、パソコン本体の方は生きていることがわかるので、アダプターさえ別のものが手に入ればそのままそのパソコンは使えることになる。
しかしそこからがまた一つ問題で、どうやってこの国でアダプターを手に入れるのか、という事だ。
圧倒的に物資が少ないと言われているこの国においては、パソコン1台すら入手するのは困難だ。
いや、確かに手には入るが、日本で買って空輸したほうがはるかに高性能で安いパソコンが手に入る。
そんな所で、ましてやアダプターだけなんて、手に入るわけがない。
そう思い、長時間かけて探す覚悟を決めながら国内有数の大型スーパーにバスで片道1時間の道のりを終業後に向かう。
まさか手に入るわけないよなー、と思いながらも、家電製品のようなものが売っているらしき一角を見つけ、そこのカウンターのお姉さんにたどたどしい英語で話しかける。
「あー、Do you have an adopter for laptop computer?」
「Yes, here you are」

あんのかよ!!!!!!

実際に出てきたものを見ても、たしかにアダプターだ。
とはいえ、色々なメーカーのものに対応できるようアタッチメントがついており、それを差し込むと自動でアウトプットの電圧も変化する仕組みだ。
これは凄いと思い迷わず購入。
そして意気揚々と片道1時間の道のりをバスで帰り、帰宅後すぐにパソコンへ接続してみる。
しかし、立ち上がらないPC。

なんでだよ!!!!!!

もうわけわからん。
電源アダプターが死んでいたのは確かなのだが、同時に複数箇所が壊れるなんて言うこともあるのだろうか?
例えば過電圧などで壊れたのだとしても、電源アダプターが緩衝材になって本体への影響は少なくて済むという印象だったのだが、そうでもないようだ。
という事でPCは完全にお釈迦となりました。
2万円くらいで買ったやつなのでそんなにショックではなかったのですが、半年くらいしか使ってないことを考えるともうちょっと長持ちして欲しかったなー。


さて、仕事が始まる前に早速1台PCをぶっ潰したわけですが、仕事始めも割と波乱の幕開けとなりました。

今週からようやく、ようやく保健医療サービス省での勤務が始まり、現在は状況のキャッチアップを行なっている。
そんな勤務地では前任の方が残してくれた引継ぎ資料(DVD-ROM)や各種専門書、JOCV専用PC(windowsXP)があり、ありがたく使わせてもらっている。
そんなPCなのだが、初日、使っている最中に突然画面が止まったかと思うとPC内部から何かが引っかかっているかのような異音が発生。
原因はHDDドライブの故障。
その中には、前任者が残してくれていたと思われる資料も入っていたはず。

なんてこったと内心焦りながらも、カウンターパート(現地の同僚)には「OK,OK,no problem !」と言い、別のHDDが机に入っていたのでそれに取り替える。
幸い使えるHDDだったようなので現在それを使い、フリーのOSであるLinuxのUBUNTUを導入した。
どうにかこうにか色々といじくっているうちにようやく日本語が使えるようになり、今に至る。
ちなみに、私の机の中にはすでにぶっ壊れ済みのHDDが5台ほど入っている。
その中には、「これならどうだ」とカウンターパートが持ってきてくれて試したHDDが3台ほどある。
これほどまでに壊れやすいのか・・・。

この国は機械に優しくない国であるとは前々から聞いていた。
試しにテスターを電源に直で差し込んでみたところ、表示された電圧はなんと300V。
240Vを大きく上回る電圧だ。
この国では停電がよく起こると言われ、そういう意味では電気が不安定なのはまあ頷ける。
まさか電圧自体がアップダウンするとは予想もしていなかった。

確かに、発電機の質が良くなければ生み出される電気の電圧も一定である保証はどこにもない。
そしてそんな電圧で電気製品を使用していれば、消耗は早い。
こんな所にまで、途上国クオリティが存在するとは。

それ以外にも壊れる原因となるのが「埃」だ。
珊瑚礁からなるこの島はその土壌の全てが珊瑚礁で形成される。
珊瑚礁から生み出される砂は、時にとても細かい粒子となり、空気中を舞う。
そしてどういう侵入経路で入り込むかわからないが、いつの間にかPC内部の精密な箇所へ入り込んだ後にPCを内部から破壊するのだ。
特にHDDやCDドライブのような物理的な動作があるものは壊れやすいと言えるだろう。

さて、そんなこんなで今のところ私はずっとフリーソフトで活動しています。
いやまあ、意外といけるもんだなというのがもっぱらの感想です。
果たしてこのあとどうなるかわかりませんが。
とりあえず、プライベートの暇つぶし用に一つPCどこかで買おうと思います。


そうそう、私のニックネームは「MATI(マシ)」か「MATU(マス)」になりました。
とりあえず初対面の人にはもれなく「Please call me friendly, MATI」と言っているのだが、カウンターパートだけなぜか私をMATUと呼ぶ。
確かにキリバス語にはそれに対応する単語があるので覚えやすいのは確かだ。


ちなみにMATUの意味はキリバス語で「眠る」である。
この場合意味しているのは、単純私が寝るということなのか、はたまたPCを永眠させるということなのか・・・。


2016/02/03

かつて見たあの地へ

一瞬、何が起こったのかわからなかった。
ちゃんと軒下をくぐったと思い、頭を上げた瞬間に訪れた不意の衝撃。
一呼吸おいてから来る激痛に、ようやく私が何かに頭をぶつけたのだと理解が追いつき、苦痛に顔が歪む。
よほど凄まじい音がしたのか、それとも私の苦痛に歪む顔がよほど痛そうに見えたのか、ホストファミリーの面々が心配そうに頭のコブを触ってくる。

や、大丈夫、大丈夫ですから、そんなに心配しないで、すっげぇ痛かったけど。

私が頭をぶつけたのは、マネアバと呼ばれる集会所のようなものの屋根の縁だ。
マネアバとは各一族に一つずつほど存在する広場のようなもので、何か催しごとがあるたびにそこでパーティを開いたりする。
そして、このマネアバというものは、意図的に屋根が低く作られている。
その高さは、身長167cmの私ですら少しかがまなければ中に入れないほど低い。
なぜそんなに低く作られているのか?
理由は、入る際に必ず頭を下げなければ入れないようにするためだ。
ある種、神聖な場所ともされている。
ボクサーがリングに上がる際に一礼をささげるように、空手家が試合場へ上がる際に一礼をささげるように、マネアバに入る際にその場所そのもの、もしくは代々受け継がれているということなどに対して敬意を表する。
きっとそういう意味が込められているのだろう。
現地人でも、良く頭をぶつけるらしい。
ちなみに私は初日のうちに二回ぶつけました。

まねあば


さて、そんな波乱の幕開けとなったキリバスにおけるホームステイは、とても有意義な話の連続であった。
基本的にはこれでもかというくらいおもてなしをしてもらえたのだが、中でもホストファミリーのご主人とかなり長い時間話をさせてもらうことが出来た。
私がお世話になったファミリーの構成は、その家族だけで考えれば5人。
主人、奥さん、女子学生が3人の5人家族だ。
この家族を一言で表すなら「スマート」に尽きる。
主人をはじめとして、皆聡明な人達ばかりだ。
主人は現在50過ぎで、既に定年退職されている(キリバス国における定年は50とかそこらへんらしい)。
退職前の職業は携帯電話会社のテクニカルエンジニアだ。
しかし、ただエンジニアといっても、彼は本当に色々なことに思考を巡らせている。
世界情勢、宗教、最新技術、キリバスの行く末などなど。
週に一度、土曜日に教会で開かれているという宗教などに関する討論集会にも連れて行ってもらった。
なお、ここキリバスにおける宗教はキリスト教でプロテスタントとクリスチャンが半々ほど。
プロテスタントが金曜日に礼拝をするということで、集会の前日にも礼拝を見に連れて行ってもらっている。
礼拝の途中、参加者がチラチラとこちらを見てくるのが気になっていたら、牧師さんが私のことを紹介していたらしい。
「He said about you.」
「Me?!」
軽くびびる私。

さて、土曜の集会に集まったのは、老若男女併せて20名ほど。
一つ一つのコミュニティ自体がそこまで大きくないことを考えると中々の参加率である。
国の大きさが違えど、その中でも考える人は色々と考えている。
残念ながらキリバス語が堪能でない私はその集会を見るだけで終わってしまったが、いずれ英語ででもなんかしら意見の一つくらいは言えるようになりたいものである。

さて、それ以外に関しては割りとのんびりさせてもらっていた1日目と2日目だが、3日目に更なるイベントが待ち受けているとは知る由もなかった。

そのイベントとは、なんとピクニック。

え、ここの人らピクニックなんてすんの?と思っていたら、なんと里帰りなのだという。
いやいや、里帰りにポッと出の異界人連れて行って良いのか?!
後から考えると、とても凄まじい経験をしていたのだと実感する。
でも、ホストファミリーの娘さんの友人さんとかも一緒に来ていたみたいだし、まあ良いのだろうか・・・。

行き先はノースタラワ。ホストファミリーの奥さんの親戚がそのあたりなのだという。
トランスポーター(軽トラ)をチャーターし、家族とその一族、友人たちを丸ごと乗っけていく。
トラックの荷台に15人くらい乗っかってます。皆言い笑顔。私も良い笑顔をするようになったもんだ


そして実際にその地へ行ってみると、驚きの光景が広がっていた。

去年の暮れ、2015年12月ごろに放映されたテレビの中に、世界の絶景にある家という名目でこのキリバスの家が紹介されたことがある。
その家はまさに海の上に存在する家で、伝統的な作りが今に生きるものだ。
その家の一つに、なんと今回案内してもらうことができた(いくつか家が建っていたので、案内してもらった家がテレビで紹介されたものであるかは定かではない)。
案内してくれたのはホストファミリーの娘さんの一人。
きりっとした目が主人に似た、とても綺麗な娘だ。
その家の家長である大婆様が、なんとその娘の叔母に当たるという。
いや、どう見ても3,40歳は離れてるけど君ら。
んで、叔母って言うことは奥さんのお姉さんにでもあたるのだろうか。
その大婆様が、一枚の写真を取り出して見せてくれた。
そこには、大婆様と並んで写っている日本人と思われる人達の姿が。
案内してくれた娘さん曰く、日本のテレビクルーだというが、まさかな・・・。
え、これ入って良いの?ホントに良いの?!

潮が満ちるとここら辺まで波がきます


また、その大婆様とは別の、奥さんのご兄弟の方にも住居周辺を案内してもらう。
周囲には伝統的なココナッツの木で作られた家々が立ち並ぶ。
その中の一つに小学校があったのだが、なんとそれすら伝統作りのものだ。
すげえ、ホントにPrimary Schoolって書いてある


そこにいる子供たちは元気いっぱいだ。
歩いていると幼稚園から小学校低学年くらいの子供たちが物珍しそうな感じで後を付いてくる。
ちなみに私が集落を訪れた日は冬休みの最終日なので、子供たちも外で遊んでいた。
中には抱きついてくる子供すら居たのが、君ら少しは異界人に警戒心持とうよ。
その子供たちを見ていると、この国が世界の中でも最も貧しいとされている国の一つであるということを忘れてしまう。
この国には、少なくとも子供たちには笑顔が溢れている。
ただの一人として、貧困にあえぐ人の姿を見たことがない。
しかし、一見綺麗に見える水の中にも細菌が潜んでいることがあるように、目に見えない深刻な問題は潜んでいるものだ。
これに関してはほぼ確実に後述することになるだろうが、改めて、国が違えば国際協力のあり方も変わってくるのだと実感させられる。

壁ない

絨毯も伝統的な作りのものです。これはココナッツの葉で作られたものではないようです


あらかた近所を回り終えると食事の時間だ。
これもやはり伝統的なスタイルの食事が出てきたのだが、一つ違うのは輸入物の鶏肉が出てきたということ。
しかも、これの調理方法は完全にバーベキューだ。
ただ燃料はココナッツの繊維とか、引っぺがした葉っぱとかです。
しかし、食卓の大きさを見ると、明らかにその人数を収容できる大きさではない。
見ると、若い面々は別のところに集まってワイワイと話をしたりしているようだった。
要は、時間差で食事をするということなのだろう。
先に食事をするのは家長や年齢の高い人達、そしてゲストだ。
私よりもふた周りは上であると思われる方々と一緒に食事をすることになる。
ただ、その際に家長が代表して祈りをささげた。
「Thank you God for the food, the name of Jesus, Amen」(最短縮形、実際はもっと長い)
ここにもキリスト教という宗教が色濃く影響しているといえる。

いやこれマジ全部美味しかったからホント


私といえば、祈りが終わって皆が食べ始めるのをよそに「頂きます」をする。
その日本式の挨拶が気になったのか、今のは何だと皆から聞かれたので、皆に「いただきます」、「ごちそうさまでした」と、その意味を教える。
彼らに教えたそれらの意味はもちろん、「食べ物、それを作る人、それを育む大地、気候、全てのものへの感謝」だ。
中にはなんと少し日本語を覚えていらっしゃる方も居たようで、「アリガトウ!」と連呼していた。
それだけのことで、なんとなく嬉しくなってしまう。
そう、やはりコミュニケーションの基本は現地語なのだ。
きっと、彼らも同じなのだ。
我々が現地語を使えば、彼らも「お、こいつはちょっと他の国のやつらとは違うぞ?」と喜んでくれる。
そうやって、少しでも心を開いてくれるのであれば、私は喜んで現地語を覚えよう。
コ ラパ(ありがとう)。

外を見ると、まさにテレビで見たような光景が広がっている。
そのテレビを見たとき一言「俺は、こんなところへ行くのか・・・」と漏らしていた。
その、かつて見たあの地へ、私は今立っている。
それだけのことで、なんだか不思議な感覚に襲われる。
この感覚に名前をつけるとしたら、どんな名前になるのだろう。「感慨」?「哀愁」?


そんなこんなで、私の3日間はあっという間に過ぎ去っていった。

4日目の朝、迎えが来て、別れ際に主人が私に言う。
「また来てくれ、我々はいつでもお前を待っている」

父さん、母さん、兄さん、日本から遠く離れた地に家族が出来ました。

PS: 折り紙は特にお花がとても喜ばれます。
例えばこんなの


2016/01/28

ナコナコ


とても青い、否、蒼い。
地面
白い、そして柔らかくも硬い。
上から照りつける日差しの強さは、蒼穹の深さが物語っている。
しかし、日差しは上から照りつけるのみならず、白い地面から反射した光が下からも我々を攻めたてる。
眩しい、目を開けていられない。
そして熱い。
暑いのではなくて、熱い。

日向は熱い、とても


帽子の縁で作る申し訳程度の日陰で上からの直射日光は防げるものの、地面が反射する光だけはどうしても防げない。
メガネを念のため調光レンズにしておいて良かった。

しばらくすると、にわかに空が翳り始める。
間もなくして、急に凄まじい勢いの雨が降る。
ここタラワの天気予報をiPhoneで見るとほとんど「Thunderstorm」になっているのだが、これはいつこのスコールが降るかわからないためだ。
現在は雨季とされているため割と雨も多いらしいのだが、ここ数年はその雨季、乾季という境も曖昧になってきているらしく、一年を通して割とよく雨が降るようだ。
少しは晴れろよ!いや、よく晴れてるんだけどさ!


実は今日、ホテルの水道が一時止まってしまった。
客室用に用意されていた水道用のタンクの一つが底を突いてしまったらしい。
タンクを切り替えてもらい、すぐに水道は復旧したのだが、このタンクの水の元になっているのは雨水だ。
ここタラワにおける生活用水は主に2つによって賄われている。
一つ目はご存知、雨水。
二つ目はなんと、井戸水だ。
当然、陸地が少なくすぐ近くに海が迫っているため地下水もそのほとんどが塩水なのだが、降った雨は地面にしみこんだ後にすぐに地下水の塩水と混ざることはなく、その上澄みとして真水の状態で残っている。
これが、ここタラワにおいて井戸水を生活用水として使用できる要因である。
ただ、いずれの水も直接は飲むことは出来ず、必ず煮沸を必要とする。
目に見えて不純物が多い場合は、ろ過も行う。
現在生活しているホテルにおいては割りと不純物は少ないので、私は水道水を煮沸した後の湯冷ましの水を飲料水として使用している。


さて、そんな生活が十数日ほど経過したわけだが、体調はすこぶる好調だ。
現在はまだ研修として、現地語の勉強をしている。
その授業をする際のメインの言語は、当然のように英語だ。
ちなみに、こちらで「イカ」というと魚になる。
「GO」は「NAKO」だ。
つまり、「I nako Betio(イ ナコ ベシオ)」で「私はベシオに行きます」になる。
そして面白いのは「WALK」が「NAKONAKO」であると言うことと、「TO」が「NAKO」であると言うこと。
つまり「私はベシオに歩いていきます」をキリバス語に訳すと

I nakonako nako Betio.

になる。
「イ ナコナコ ナコ ベシオ」ってなんかすげえ可愛いなおい!
明らかに、日本語の「歩く」や英語の「WALK」よりも、言葉として「歩いている」感がひしひしと感じられるような気がする。

ナコナコ

うん、なんかすげえ猫とか犬がナコナコしてる感じ。
これから、歩くときの擬音として「テクテク」とか「トコトコ」に加えて「ナコナコ」使ってみませんか?
使いませんか、そうですかー。残念だなー。

ちなみに挨拶は朝昼晩変わりなく「Mauri」だ。

道を歩くと、我々が日本人だからなのか、それともこの国の人達の人柄なのかわからないが、よくマウリマウリと道行く人々と挨拶を交わす。
ニッコリ笑いかければ9割がたニッコリ笑い返してくれる。
その際マウリと言えば、必ずマウリと返ってくる。
たまに向こうのほうから「Ko na aera?(コ ナ アエラ?)」などと聞いてくることもある。
これは「どこにいくの?」とか「なにしてるの?」といった、現地人同士で日常的にかわされる挨拶のようなものだ。
この問いに「Ikai(イカイ)」と答えれば「ちょっとそこまで」というやり取りが完成する。
とりあえずは誰とでも良い、この「Ko na aere?」から「Ikai」へのやり取りをこなしてみたい。
実は一度、そこらへんでたむろしている若者に言われたことはあるのだが、その際は瞬時に反応できず困った顔をしていたら「Where are you going?」と英語で言いなおしてくれた。
それでも「あー、えーっと、Here」としか言えなかった私はヘタレです。
さあキリバス人よ、誰でもいいからこの私に再びコナアエラって言え!言うんだ!

ちなみにベシオ地区というのは大きな港がある街で、物が沢山あるいわゆる経済の中心地なのだが、これに関してはまた後ほど書かせて頂こう。

さて、実は明日から研修の一環として三泊四日のホームステイが待っている。
正直英語すら怪しい今の私にキリバス語でホームステイ先のホスト達とまともなコミュニケーションが取れるとは思っていない。
まあ、事前に聞いている情報だと家族皆割りと英語が堪能だし、父親が省庁に勤めているということなので、かなり裕福なんだろうと思う。
その関係で週末にブログの更新が出来ないため、今回は早めの更新でした。
帰ってきたらホームステイの結果報告します。

それでは、また。

PS: 英語の勉強は毎日少しずつ続けています。

2016/01/24

南国の果物と共に生きる

ココナッツの木の幹にはところどころ切れ目が入れてある。
物によってはそれがないものもあるが、そういうものにもたいてい釘などが刺さっている。
なぜか?それは人が登りやすくするためだ。
若い男性がココナッツの木を登る。
速い、実に器用なものだ。
木の上には当然ココナッツの実がなっているのだが、それとは別に、なぜかペットボトルがくくり付けてある。
若者がそれを手に、ココナッツの木を降りてきた。
中には何かの液体が入っている。
「Try it」
飲め、と言うことだろうか?
え、これ飲めるのか?
促されるまま中の液体を少し手に取り、啜る。
甘い、ココナッツの樹液だろうか?
現地の人達はこれを煮て成分を濃くし、メープルシロップのようにして料理に使ったりすることもある。
実際、煮込んだ後の樹液を見せてもらったが、その色は蜂蜜さながらだ。
味は甘苦い感じ。工夫すれば良い調味料となるはずだ。

この国、キリバスにはとても子供が多い。
とても、多い。
その日はキリバスの伝統的な暮らしをしている集落へ訪問したのだが、ちょっとした集落にも子供が数十人といる。
ある日、私の父が日本へ来たベトナム人から言われたそうだ。
「日本には、子供は、どこに行けば、見れますか?」
彼らの感覚からすれば、これが正常なのだ。
日本には、あまりにも子供が少なすぎる。
子供すげえ沢山


総じてみんな可愛いです


そんな伝統的な集落において、色々ともてなしをしてもらう機会があった。
集落を案内してもらい、料理をふるまってもらう。
意外にも野菜と呼ばれるものもいくつか出てきた。
以下がその料理のラインナップである。

  • ココナッツの実の樹液漬け
  • カボチャ
  • ブレッドフルーツ
  • マグロの酢漬け
  • 米(ココナッツジュースで少し味付けがしてある)
  • 貝の塩漬け
  • 干した海草

カボチャは日本で食べるようなカボチャとは若干違って少し水っぽい。
ブレッドフルーツもカボチャと同じような食感と味で、我々にはなじみはないが瓜科の植物だ。
もっと魚が出てくるかと思ったのだが、今回の食卓ではマグロの切り身を酢のようなもので味付けしたもののみだった。
ただ、このマグロと米の相性が抜群なのである。
貝の塩漬けは、ちょっと塩味がきつかったかもしれない。
カボチャかブレッドフルーツで塩味を薄めながら頂く。
海草は、どうやら近海の底に沈んでいるものを採ってくるらしい。
キリバスの近海にはそこらに海草のようなものが沈んでいる。
いや、海草なんだろうけど、それを食おうとは思わんなー。
食べてみると、まるでスルメのような食感だ。
うん、これはいける。酒が欲しくなるなこれは。

さて、おもてなしに舌鼓を打った後は、集落においてココナッツがどれだけ重要な役割を担っているかの説明を受ける。

キリバス人は、ココナッツと共にある、といっても過言ではない。
それを説明するためにはココナッツがどれだけ余すところなく使用されるかを語らねばならないが、なんと家の材料にもしたりする。
まず、キリバスの伝統的な家には壁がない。
時には風が吹くこともあるだろうに、その時はどうしているんだろうかという疑問はさておき、その家に入ってみると、確かに涼しい。これは快適だ。
中と外で3度は気温が違うのではないかと言うくらい涼しい。
ちなみにその家は、全てがココナッツによって作成されている。
幹を骨組みに、屋根を葉っぱで覆えば完成だ。
骨組みを組むためには紐が必要になるのだが、それすらココナッツから作成する。
紐の元となるのは、ココナッツの実の外側を覆う繊維たちだ。

キリバス人は、ココナッツの実を食べるとき、その成熟具合によって食べ方を変える。
ちなみに、ココナッツも他の植物にありがちな色の変色を見せる。
青ければ未熟、黄色ければ成熟。
ココナッツジュースとして使用されるのは青いものだ。
また、ココナッツの実の内側には白い層が存在するのだが、成熟度合いによってその層の厚みが変わってくる。
成熟すればするほど、その白い層の厚みが厚くなる。
なお、この白い部分も彼らにとっては貴重な食料の一つだ。
ただし、成熟すればするほど中のジュースは味が悪くなってしまう。

そんなココナッツを食す際、彼らはまずココナッツの皮を全て剥く。
ここでいう「皮」とは繊維層のことを言うのだが、まずはココナッツの実がどういう層で形成されているかをまずは説明しよう。
ココナッツは、感覚的に以下のように構成されている、と思う。

  • 外皮
  • 繊維層
  • 内殻(繊維層を剥いた後に出てくる硬い殻)
  • 内実(食べられる部分)
  • ジュース

このうち、内殻から外側の繊維層を全て剥ぎ取るのだが、その際に使用する道具もかなりアグレッシブだ。
見ると、腰くらいまでの高さのとがった金属製の柱のようなものが地面から直立している。
太さは手首ぐらい。
これはなんだと思っていると、若者がココナッツをおもむろにその柱へ刺し込んだ。
その鉄柱の先端にココナッツを叩きつけ、器用に皮を剥ぎ取っていくのだ。
あの柱、すげえ危ないと思うんだけど、大丈夫なんだろうか。
子供走りまわってっけど。
内殻の一部、カッチカチやぞ


剥いた後の皮は、いったん地面に埋める。
乾燥させるためなのか、なんなのかわからないが、とにかく埋める。
しばらくしたら掘り起こし、器用に繊維を編みこんで紐を作るのだ。

それ以外にも、使えなければ火の燃料にしたりなど、ココナッツは余すところなく全て使用される。

葉っぱも屋根に使用するばかりではない。
ココナッツの木の葉は一本の枝に何枚も細長い葉がくっつくことで形成されているが、その葉を編みこむことで絨毯のようなものを作ることだってある。
実の繊維から作られた紐と貝を使って民芸品を作ったりもするようだ。
その民芸品を扱う民芸品屋さんへも連れて行ってもらえた。
その際になんと、一つただで持っていって良いというのだ。
心遣いに感謝し、一つ頂く。
ありがとう、これ一つ作るのにもかなり時間かかったろうに。

貝のペンダント、常備しています。


キリバス人にとって欠かせない、欠かすことの出来ないココナッツ。
おもてなしや民芸品のお返しとしてと言うのもなんだが、内殻の部分を使って新しい何かを作れないかと考えている。
この部分、実はかなりの硬度を持っており、彫刻に耐えうるのだ。
まあ、単純に器として使えるは使えるだろうが、それだけではなんとなく味気ない。

何か、良い案はないだろうか。



雨上がり、虹の色は日本と変わりません


2016/01/18

Dive To Blue

ヤシの木。
それらの隙間から見える、エメラルドグリーンの海。
見上げる蒼穹は、これまで見たどれよりも深い。
木々の間を見たことがない鳥が飛び交う。
鶏のクックドゥードゥルドゥーがひっきりなしに聞こえてくる。
唐突に叫び始める近所の子供たち。
時折聞こえるサイレン、これはパトカーなのか救急車なのか。

気温は30度に満たないか、それくらい。
湿度は天候による。
午前中はここが本当に赤道直下なのかと疑いたくなるほど涼しく、過ごしやすい。
晴れているときはとてつもなく強い日差しが照りつけるため、日のあたるホテルの玄関側はとてつもなく熱くなる。
ベランダは必ず日陰となるため、一日を通してとても心地が良い。
ヤシの木の下に建っている島の伝統的な家には、事前情報通り、壁がない。
屋根だけ、ヤシの木の葉を束ねて作ったと思われるもので覆っているが、日陰を作るだけで十分涼しいのでこれで全く問題はないのだ。

さて、ここまでの感想を一言で述べると、「まるでリゾート」だ。

他に日本以外の海のリゾート地へ行ったことがあまりないので比較は出来ないが、キリバスは相当良いリゾート地になりうる。
治安もかなり良いようだ。
ただ、最近は失業率の高さが問題となってきているらしい。

さて、キリバスという国をざっくりと説明したところで、現在の私の状況をまずは振り返ってみようと思う。

本日はキリバス到着から6日目。
一昨昨日はオリエンテーション一日目ということで、各関係省庁や職場訪問などを行った。
日中はほぼ車移動であったため、かなり大変だった。
一昨日は土曜日なので基本はオフなのだが、なんと現地に住んでいらっしゃる日本人の方々や先輩の隊員の方々、JICA関係でちょうどいらっしゃっている方が歓迎パーティを催してくれたので、ありがたく参加させてもらった。
驚くべきことに、出てきた料理は散らし寿司、ざるそば、フライドチキン、茶碗蒸しなど、ここでそろえようと思ったらかなり大変な代物だったはずだ。
散らし寿司には、なんとカニまで入っていた。
ここら辺でカニなんて採れるのか?と思っていたら、なんとこれも日本から持ち帰った冷凍ものを使用してくれたという。


感謝、圧倒的感謝・・・!


昨日は休日でそれぞれの余暇を過ごす。
実はこの文章も昨日のうちにしたためていたのだが、ネットの関係であげることが出来なかった。

今日からは、3週間ほどはオリエンテーションや現地語学研修が続くことになる。
それまでは同期隊員と一緒だ。

まだ、まだ始まらない。
しかし、モチベーションはかなり上がった。
休養も昨日十分にとった。


さあ飛び込もう、果てしなき蒼穹へ。
あ、ちなみにスキューバダイビングは禁止です。

2016/01/11

My Second HELLO WORLD

黒いコマンドプロンプトの画面に、たった一言「HELLO WORLD」という文字が表示される。

こんにちは、新たな世界。
この度、私はそちらへ足を踏み入れることとなりました。
世界よ、私へWELCOMEと言ってくれるだろうか。
私の来訪を歓迎してくれるだろうか。

7年前、テキストファイルに以下の文字列を打ち込んだのが全ての始まりだ。
public static void main(String[] args){
    System.out.println("HELLO WORLD");
}
全てのプログラマが、まずはこの「HELLO WORLD」を画面に表示させるところからスタートする。
どんなプログラミング言語をやるにしても、ほぼ例外はない。
プログラムという名の大宇宙を開く鍵、プログラミング。
だからこそ、その世界へ入るため皆、まずは「世界」へ挨拶をする。


明日、私は日本を離れ、文字通り世界と「こんにちは」をすることになる。
過去に旅行でタイや台湾、上海に行ったのとはわけが違う。

私の一回目の「HELLO WORLD」は、良くも悪くも大変だった。
1日のうち15時間をプログラミングに費やす日が半年続く期間すらあった。
その一回目の七年間が、私の二回目の「HELLO WORLD」を導いた。
二回目の「HELLO WORLD」は、果たしてどうなるのだろう。


こんにちは、新たな世界。
この度、私はそちらに足を踏み入れることとなりました。
世界よ、私へWELCOMEと言ってくれるだろうか。
私の来訪を歓迎してくれるだろうか。


願わくば、全ての協力隊員の「HELLO WORLD」に祝福があらんことを。