ここ最近は暇な時間があれば何かを読んだり何かを書いたりという行為に没頭しており、水も食べ物も少ないこの地においては時間のみが逆に湯水のように使うことができるのだが、何かしらの目的意識を持って何かを読んだり書いたりしているとそれでもなんやかんや時間というものは足りなくなっていってしまうもので、フルに一日を使うことができる日曜日であるこの日も色々と書こうと思って机の前にノートを広げてウンウン唸っていたのだが一向に筆は進んではくれず、気がつけば夕方になってしまっているという有様なのである。
このまま白紙を前にボーっとしていても埒が明かないと、どうせなら海でも見ながら色々と考えようと思い立ち、上履きから外履きのサンダルに履き替え、道路を挟んで向かい側にあるラグーンサイドの浜辺に立つ。玄関開けたら徒歩二十秒のこのビーチは干潮時には向こう百メートル以上は海底が露出する。しかしそうではない現時刻においては、フライパンに敷くサラダ油のように海底を海水が薄く覆う。音はない。正面に海を眺めて後方に走るコンクリート舗装道路を車が走る音のみが時折響く。根本的に、その地を構成するベースとなる音がない。
日本であれば、どこにいても割りと音に溢れている。都会であれば都会の、田舎であれば田舎の、それぞれ何かしらの音があり、だからこそ寂しくはない。生物多様性が著しく損なわれているこの地においてふとした瞬間に訪れる完全なる静寂は目の前に広がるカーニバルのような鮮やかさとはあまりにも対照的で、だからこそ、この静寂はとても貴重なものだと感じている。今の所、この地に居る誰一人として私のこの主張に同意してくれる人は居ない。
静寂を打ち破るように、子供の声が浜辺に響き渡る。一人の小さな子供とそのお兄ちゃんと思われる子供が、もはやゴムの部分だけとなった車のタイヤを海に浮かべ、いや、タイヤの厚みほどの水深もない浅瀬にタイヤを置き、その上に乗ってジャブジャブと揺らして遊んでいる。
「アッアッアッアッアー!!!」
大きいほうの子供がそう叫ぶと、
「アッアッアッアッアー!!」
と小さいほうの子供が真似して返す。そんな微笑ましいやり取りを何回も繰り返す様子を、後ろで仲の良さそうな夫婦が眺めている。私は静寂が好きだ。でもこういうのも嫌いではない。他に余計な音がない分鮮明に響きわたる甲高い子供の声はどこかに反響し、ほんの少しだがエコー掛かって聞こえる。
二人の少年達が立てる小さな波紋は歪に融合しながら広がり、徐々に綺麗な半円形へと変化しながら限りなく静かな海へと霧散して消えていった。そんな海に写る鮮烈な夕暮れの紅は悠久の時を持ちうることは適わず、次第に東の空から押し寄せるポエベの闇にやはり飲まれて消えていった。そのようにして、私の日曜日も無へと消えていった。
なんと、私は贅沢なのだろうと思った。
少し前の自分は、何か物がないからと、贅沢などとんでもないなどと切って捨ててしまっていた。しかし、今私の前に広がる光景はどうだろう。世界中の誰にでも自慢できる自信がある。遠い地に居る人にはこの光景を見ることは叶わない。この静寂を聞くことも叶わない。見難いものを見、聞き難いものを聞き、その結果、得難いものを得る。これを贅沢と言わずに何を贅沢と言うのだろうか。
しかし、それは世界中のどこに居たって同じではなかろうか。世界のどこに居たって、その地に居る人にしか見ることも聞くことも触ることもできないものが何か一つは必ず存在する。その存在に秘められた価値を誰か一人でも見出すことができるか否か、重要なのは、きっとそこなのだ。
青年海外協力隊員としての人気も残り半年余りの自分がそれに気付いたのは、残念ながらあまりに遅かったかもしれない。しかし、遅すぎたということはない筈だ。
きっと、まだ自分にできることはある。